≪スタッフ・有志の連載≫
 <第54回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第54回 “小さい秋”を探しに…
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二十四節気の第十五節気にあたる「白露」は、今年は9月7日でした。大気が冷えてきて露点が下がり、朝露を結ぶ頃といった意でしょうから、暦の上で今はもう仲秋ということになります。

時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風既に暁の近くを告げていた。(中島 敦『山月記』)

まあでも皮膚感覚でいうなら、いまはまだ晩夏からせいぜい秋の初めの風情というのが正しいでしょう。
けれども夏至からはふた月半が経過し、日は明らかに短くなり、そのくせねばり付くような暑さがまだ残り、街中であれ郊外であれ、風景には夏の疲れのような物憂さがつきまといます。蝉の声も、夏の初めであれば命の賛歌とも受け止められましたが、9月初めのいまそうした清新さは失われ、惰性と倦怠の象徴のようにも聞こえてしまうと言ってしまったら、蝉たちには少々気の毒でしょうか。
そうした晩夏の風情を個人的にはあまり好みません。疲れたときの、目標を失いがちなときの、さしたる理由はないものの、もうひとつ気力がそがれているときの己の姿を、夏の終わりの景色につい重ねてしまうからでしょうか。


ではこんなとき、何に心を寄せれば沈みがちの気持ちがいくらかでも上向くでしょうか。
たとえば、次なる季節に目を向けるのはどうでしょう。平安の歌人、藤原敏行は吹き来る風に秋の気配を感じ取ったのでした。風ばかりでなく、常以上にアンテナを張り、空の色、咲く花の種類、樹々の葉の色合い、鳥や虫たちの動向のわずかな変化をキャッチし、季節の移ろいを目や耳や肌で受け止めることで、鈍化摩滅ぎみの心が少しは活性化されるのではと、己が己に少しだけ期待するのです。
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夜来の雨は午前中には止み、暫くすると青空が覗き始めたその日、空気は乾き、風は北寄りに変わっていました。
それまで恨めし気に曇天の空を見上げていた私は、やおら立ち上がると急いで身支度を整え、私が最も好む農地の一つへと向かいました。
車中、まだ早いかなという一抹の危惧を抱いたものの、その農地に降り立ったとき、不安はすぐに払拭されました。いくつかある休耕田の一つを前にして、私は目を瞠らずにはいられませんでした。初秋の走りともいえ る幾種類ものタデの花々が、そこに咲き誇っているのです。
オオイヌタデ オオケタデ シロバナサクラタデ

さらにアキノノゲシ・ツルマメ・ヌスビトハギ・エノコログサ・キンエノコロなど、図鑑をめくればすべて秋の花に分類されている草々の色彩が、その休耕田をより一層明るく華やかに、けれども春夏のそれらほど過剰な主張をすることなく、野を飾ります。そうした初秋の花に彩られた、ここはまさに“花野”です。
広い農地にただ一人、野の花に埋もれるように、私はずいぶん長い時間を過ごしました。無気力で厭世的な気分からひととき離れて…。 (花野は秋の季語になります)

草いろいろ おのおの花の 手柄かな (松尾 芭蕉)
アキノノゲシ ヌスビトハギ ツルマメ


別の農地に来ています。やはり休耕田を見つめます。でも今度は鳥です。

シベリア方面で繁殖を終えたシギやチドリが、越冬地である東南アジアやオーストラリアに向かう途中日本に立ち寄り、栄養補給や休息する様子を“秋の渡り”といいますね。渡りはまだまだ暑い8月中旬から始まります。けれどもこの頃のシギチは、初秋を告げる鳥なのだと解釈してよいでしょう。主に干潟や河口の砂地などに群れを成して現れますが、内陸の休耕田などで羽を休めている姿も見られます。

ただこの休耕田、そうそうたくさんあるわけではなく、また餌となる水棲の生き物を養うため、水が張られていることが条件となります。稲刈りが始まると農家は水を落としますが、ついでにこの休耕田の水も落とされることがあります。また暑い日が続けば干上がってしまう場合も多く、鳥探しはかなり苦労します。さらに情報に疎い自分では、知っている休耕田もずいぶん限られてしまいます。まして自由に飛び回れる翼を持つ鳥のこと、いつも同じ場所にいる保証はまったくありません。昨日いても今日はいない、でもまた明日来るかもしれない、そんな探鳥なのです。土日しか出かけられない自分の場合、もはや勘を頼りに行ってみるほかはありません。
まあ、だからこそ、その勘が当たってうまく鳥に出会えた時の歓びは、他に譬えようがありません。珍しい鳥かどうかはまったく意に介しません。鳥が、周囲の緑を映した美しい休耕田に佇んでいる姿こそが、初秋をシンボライズしているようで、私を惹きつけてやみません。

何回か複数ヶ所の休耕田へ辛抱強く通い、ようやく数種類のシギチに出会うことができました。
イソシギ(磯鷸)は、シギチのなかでは珍しく基本的には留鳥ですし、ごくありふれたシギかも知れませんが、愛すべき身近な鳥ではないでしょうか。
タカブシギ(鷹斑鷸)も水田や湿地を代表するようなシギですが、姿勢の良さや、どことなく漂う気品のようなものを感じるのは私だけでしょうか。
コアオアシシギ(小青足鷸)は、アオアシシギ(青足鷸)よりはずっと小さくて、その分愛らしく上品なイメージを持っています。今回撮影したのは若鳥のようですが、クサシギ(草鷸)2羽と行動を共にしていました。
彼らの滞在期間は、地域によっては10月まで見られるところもあるようですが、こちらではせいぜい1ヵ月半といったところ。いずれにしても秋の初めの到来を告げる愛すべき、そして美しい鳥たちです。
イソシギ タカブシギ コアオアシシギ

さらにムナグロ(胸黒)やクサシギが私を出迎えてくれました。それから、いかにも初秋を思わせるスズメとの出会いも嬉しいものでした。
ムナグロ クサシギ スズメ

コンバインが、青空に向けて高らかに収穫の音を立てています。アマサギやカラスが後を追う姿も微笑ましいものです。
稲刈りが一段落する頃、シギやチドリは南に渡ってゆくことでしょう。
考えてみると、秋、他のどんなフィールドよりも私は農地にいる時間が格段に長いようです。花も鳥も農地に支えられているものが好みなのです。
農家の方ともよく話をします。先日は田圃に引く水の話でした。通常は河川や用水路から水を引きますが、その方の所は、普通に人が飲める地下水を汲み上げているのだとか。だからウチの米は格別に旨いんだよと嬉し気に自慢します。その自慢がちっとも嫌味ではなくて、ちょっとおしゃべりで人の好さそうな、よく日焼けした初老のその男の方の屈託ない笑顔に、聞いている私も清々しいような気分にさえなりました。

ふと見やれば、エノコログサが風に揺れています。その風に誘われるように、間もなくノビタキが里へ下りてくることでしょう。秋が深まり、風景がすっかり秋色に染まるまで、田圃や畑で、私はこの後ずっとノビタキと時間を過ごすことになるでしょう。秋が私を、至福の時間へと導いてくれるのです。
ゑのころの 穂に茜さす 志(ココロザシ) (佐々木 六戈)
エノコログサ

(了)