≪スタッフ・有志の連載≫
 <第57回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第57回 冬は猛禽
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年が明けたと思う間もなくはや如月(2月)。白梅がほほ笑み始め、赤い寒椿が思いがけず積もった雪に身をすくめている、そんな浅い春を迎えています。桜の豊潤が辺りをこの上なく幸せにしてしまう“爛漫の春”も、それはそれで謳歌したいものですが、日脚こそ目に見えて延びてきてはいるものの、まだ寒風吹きすさぶ野にさまよい出て、そんな“兆しの春”を探す“粋”こそは、寒さに丸まった背をすっと伸ばし、思いや行いをまた新たにしてくれる、謂わば「更新の力」を宿してはいないでしょうか。

一輪の 色をほどきて 梅匂う (稲畑汀子)


さてこの冬、例年以上に私は「冬の猛禽」にこだわってみました。

なべて猛禽類は、まったくもって魅力的な存在だとは多くのバーダーが認めるところでしょう。留鳥のオオタカ・ハイタカ・ミサゴ・ハヤブサなどはいつ見ても心躍りますし、まして山でクマタカなどに出会えれば、もう有頂天を通り越して心臓が飛び出てしまいそうです。サシバやハチクマに代表される春秋の渡る鷹の姿を見ることも、またバーダー冥利に尽きるものがあります。
そして「冬の猛禽」。
チュウヒなどの冬鳥としての猛禽は、また別の魅力にあふれます。鳥たち自身がもちろんこちらを魅惑してやまないのですが、彼らの棲息環境が私を惹きつける、もう一つの要因ともなっています。
(葦 原) (干拓地) (地元の湿原)
チュウヒ(若鳥) チュウヒ(白色型) チュウヒ

冬の猛禽は広い農地・葦原・干拓地などに棲息しています。冬ざれて、一見生き物など何もいないような茫漠とした風景がどこまでも広がる曠野。枯れ葦、枯れ芒、枯れ草に被われただけの寒々とした風景の、いったい何にひかれて彼らはやって来るのでしょうか。
ところが気をつけてその曠野を見てみると、思いがけず多くの小さな生き物たちがそこには息づいていて、肉食である猛禽たちはそれらを狩って冬を生き延びようとするわけです。
棲息しているのは野ネズミ(カヤネズミ・ハタネズミなど)・モグラ類・小鳥(スズメ・カワラヒワ・セッカ・ホオジロ・ホオアカ・オオジュリン・カシラダカ・アオジ・ベニマシコ・タヒバリ・ヒバリ・ジョウビタキなど)などです。
ネズミやモグラを人が見つけるのは至難の業。でも猛禽たちは目で音で獲物を感知し、見事に捕えるのです。
一方小鳥ならば、注意深く曠野を見つめていればなんとか認識することはできます。ただし彼らも常に猛禽の餌食になってしまう脅威に晒されているわけですから、いったん飛び立ったにしても、すぐに枯葦や枯れ草の中深くに飛び込んでしまいます。それでもホオジロなどは、比較的よく見える所に出てきますが、これは多分に危険な所作と言わねばならないでしょう。
なかなか姿を見せない小鳥たちを同定するもう一つの方法は、彼らが短く発する“地鳴き”の声を聞き分けることでしょう。ホオジロ・ホオアカ・カシラダカ・アオジのようによく似た声を出す鳥も多いので、これはもう耳で覚えるしかありません。
(干拓地) (干拓地) (干拓地)
ハイイロチュウヒ(雄) ハイイロチュウヒ(雄) ハイイロチュウヒ(雌)

いずれにしても、葦原や干拓地には、冬の猛禽たちが十分依存できるだけのネズミ・モグラ・小鳥たちがかなりの密度で棲息しているのです。ただしそうした小さな生き物たちが多く棲息する、しかも比較的大きな自然環境の存在はかなり限られているので、必然的に冬の猛禽たちが観察できるフィールドも限定されてきます。

私の住む地域には、幸い毎年チュウヒや留鳥である猛禽、さらにハクチョウまでやって来る湿原がありますが、より広く、より雄大な曠野をとなると、北の隣県の広大な葦原、もしくは北東の隣県に広く点在する農地や干拓地にまで足を伸ばさなければなりません。地元からあまり出ない、地元の自然をこそ知悉すべきと考えている私にとり、そこは結構な遠征地となるのですが、そんな己の内のある種の閉鎖性など簡単に凌駕してしまうほど、冬の猛禽とそのフィールドは私を魅了してやみません。そこで私は週末ごとに2時間ないしそれ以上も車のタイヤをきしませ、一見生命の営みを感じさせぬ荒涼として無機質な、けれどもその実多くの小さな命を育む、そしてそれらの命を糧としたい猛禽たちが容赦なく(己の生を繋ぐために)その命を狩る、そうした相反した立場の生き物が、それでもやはり両者にとって冬を乗り越えるためにどうしても必要な、厳しくも豊かな曠野を目指したのです。
(干拓地) (干拓地) (干拓地)
コミミズク コミミズク コミミズク

ここはバーダーには比較的知られた干拓地ですので、週末にはカメラマンこそいますが、それぞれが思い思いの場所に分散しますし、またそれ以外にはほとんど人気のない、まさに茫漠として掴みどころのない、見ようによっては寒々しいまでの曠野が見渡す限り続きます。
もしチュウヒやコミミズクが、樹木の緑が瑞々しい山や、空と海の青さが際立つ干潟であったり、人の手による二次的な自然である夏の田圃や畑などに現れるのなら、私はこれほど行動的にはなっていないと思うのです。明るく華やかなフィールドに果たして彼らは相応しいのかと言えば、それは断じて否なわけです。彼らはあくまで冬の猛禽であり、冬ざれた環境こそ似つかわしい大型の肉食禽なのです。

鳥撮りを初めて間もない頃から、私は冬になると有名探鳥地には背を向けて、どこまでも続く広大な河川敷や葦原などを歩くようになりました。目的の鳥がいるわけでもなく、ただ歩くのです。できれば知らない所で、人気もなく、冬ざれた景色が延々と続くような所を選んでまで歩き、ときにオオタカが河川敷の林を縫うように飛び行く様に一人興奮したりしていたのです。孤独癖というのとも少し違う、いつからかそうした風景への憧憬が私の内に育っていて、季節が冬を迎えるとその感情がむくむくと頭を擡げ私を否応なく突き動かすという、ある種の志向・性癖が私にはあったようです。
さらに「冬の猛禽」という極めて野性的な生き物がそこに重なり、二重に私を魅了して離さなくなっていったのでした。
(地元の湿原) (葦 原) (地元の湿原)
ミサゴ ト ビ ノスリ

2月も末になれば、気の早いハクチョウたちが北帰行の衝動にそわそわし始めることでしょう。そして3月を迎えれば、冬鳥たちは北へ北へと旅立って行くことでしょう。
南岸低気圧が関東に雪をもたらすのは、春が近い証拠です。
私の葦原や干拓地通いもそろそろ終盤を迎えることになります。残り少ない冬の日々。それ故その地に立てば、私は日が暮れるまで、いえ、日暮れてなお残照に照らされ赤々と燃える西の空が、やがて完全に陽の色を失ってしまうまで、私はそこに立ち尽くします。
今日の日が終わってしまうやるせなさに抗うように…。

  一も二も なくて枯野の 風の中    (鈴鹿百合子)
  枯野起伏 明日という語の かなしさよ (吉田シュウ頓)


(了)