≪野鳥観察情報≫
   バードウォッチングのミカタ
 ======== by 松田 道生さん

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  第77回 あらためて野鳥とは
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私が日本野鳥の会の関係者だとわかると、「紅白に出たことがありますか」と「焼き鳥(あるいはフライドチキン)を食べますか」がベスト2の質問となります。ベスト3以下は、いろいろな質問でいずれも少数となります。以前、入院したときも主治医の先生が深刻な顔をして来たので、病状が悪化したのかと思ったら「松田さんは野鳥の会ですよね。ウチの病院は食事に鶏肉が多いのですが、食べられますか」という質問でした。

もちろん、鶏肉は食べますし、焼き鳥も唐揚げも好きです。日本野鳥の会の大先輩のS木さんは「鳥が大好きだから鶏肉も食べない」と、おっしゃっていましたが、このような方は野鳥の会のなかでも少数派でしょう。

今さら言うまでもありませんが、整理をしておきます。野鳥は、自然の仕組みを担っている生き物で、いわば生態系の歯車のひとつ。その歯車を捕らえて食べたり飼ったり(個人の所有に)することは、バードウォッチャーとして、あるいは自然を守る者としてはゆるせない行為だと思っています。それに対し、ニワトリは鶏舎のなかで飼われ自然とは隔離された生き物、さらにはヒトの管理下で生きているのだから食べてもかまわないという考え方です。

中西悟堂さんが提唱した”野鳥”という言葉は「野生の鳥」という意味であり、野生に価値があると改めて述べておきたいと思います。ちなみに、野鳥は悟堂さんの造語という説がありますが、これは誤り。雑誌『野鳥』のネーミングの前年に竹野家立が『野鳥の生活』(大畑書店)という本を出しています。

さて、剥製をもとにした分類学が主流だった昭和初期、悟堂さんが鳥類ではなく野鳥という言葉を使ったのは、生きている鳥に魅力を感じ自然のなかを飛び回る鳥を素晴らしいと思ったからだと思います。その魅力を広めようとした思いが込められた言葉だったのでしょう。そして、現在にいたり、鳥と野鳥の意味の違いは、大きなものがあると思っています。

私が若い頃、愛鳥モデル校の先生が「上野動物園でケージの中の鳥を子どもたちに見せることができた。あれは良いですね。」と言われたときの違和感は、今だ忘れません。私は違和感があったものの何がおかしいのか伝えるすべがなく、うなずいただけだったと思います。このとき「先人たちの自然のなかで野鳥を見る、あるいは見せるための努力を伝えて欲しい。自然のなかで見ることから、野鳥たちの生き様や自然の魅力を同時に伝わるのだから」と言えなかったことが悔やまれます。この先生にとっては、バードウォッチングとは野鳥の姿と名前を一致させ、名前をおぼえてもらうことで完結していたのです。ですから、図鑑を見ながらケージのなかの鳥と名前を合わせることでOKだったわけです。

しかし、身近な公園で初めてバードウォッチングをした方でも「自然のなかで野鳥が一生懸命生きているのですね」とか「野鳥は食べたり食べられたり緊張感を持って生きているのですね」という感想を寄せてくれることがあります。これこそ、してやったりです。こうした動物観、自然観を持ってもらうためのバードウォッチングだと思います。

ですから、鳥を見て名前を調べ、当たり前が珍しいかの判断をするだけのバードウォッチング、あるいは鳥を被写体としてしか見ていない写真の撮り方をしているのは、野鳥でなくて鳥で良いことになります。

正直、野鳥にこだわると苦労をします。たとえば、なかなか見えない聞こえない、そして見せられないこともままあります。寒い暑い、あるいは虫に刺される、歩いて疲れたとなります。苦労のすえ出会えた野鳥の魅力はひとしおであると思うことが、バードウォッチングの神髄だと思っています。