≪スタッフ・有志の連載≫
 <第63回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第63回 猛禽の日々
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師走あたりからこっち、日に日に野から色味が失われてゆくと、毎年のようにある衝動にかられます。それは冬ざれて荒涼とした景色の中に一人身を置きたいという、少々ニヒリスティックなそれです。いったいこの衝動はどこに由来しているのか、自分では定かではありません。若い頃ヘラブナ釣りに熱中していたことがあって、真冬、魚が濃い釣り堀や管理釣り場には背を向けて、関東北部、枯れ田に囲まれた灌漑用水路で、日がな北風に吹かれながら釣り糸を垂らすも、寒さで魚の活性が極端に低く、ただの一度も浮子が動くことなく納竿した日が何日もあるにもかかわらず、懲りずにまた出かけて行った、その頃からの慣わしなのかも知れません。

実(ジツ)を取らずに見栄やら雰囲気、ないし情を取りたいという、成程だからいつまで経っても、いやきっと死ぬまで未熟な貧乏人のままなのも頷けようという性分が幸いしてか災いしてか、何をやってもうまく立ち回れず、鳥撮りなども15年あまりしてきているのに、これまたいつまで経っても納得のゆく画は生まれてこず、さりとて助言・情報を求めず、いつも単独行の日々が続いています。
そんな少々面倒くさい輩にはお似合いのフィールドが、冬ざれた河川敷・干拓地・葦原・湿原等なのです。なにを好き好んでと、誰もが思いそうなそうしたフィールドには、しかしながら“ひねくれ者”のココロを鷲づかみ(ダジャレっぽい? いえ、文字どおりに)にして離さない魅力溢れた生き物がいるのです。

それが冬の猛禽です。
チュウヒ 同 左 同 左

例えば訪れる人も少ない冬の遊水池。葦原を縫うように吹きつける冷たい北風に、敢えて晒されに行く酔狂。
とり憑かれたように、というのは大げさに過ぎるでしょうか。いえ、やはりとり憑かれているのでしょう。彼のひねくれ君は週末ごとに、他のどんな魅力的な過ごし方にも背を向けて、冬の猛禽が棲息する枯れ葦や枯れ芒が冷たい北風になびき続ける、茫漠として侘びしく、どこか泣き出したくなるような哀しささえたたえるフィールドへと赴くのです。

人工知能などの技術が加速度的に発展し、やがて車はすべて自動運転となり、さほど大きくない荷物はドローンが運び(空中移動だから渋滞にもはまらない)、介護や飲食店での接客もロボットが対応するようになり、結局人が行ってきた仕事の半分以上を機械(AI)が取って代わって行うであろう時代が、もうすぐそこまで来ているといいます。もはや人が構築してきた文明は、行き着くところまできているという言い方をする向きもあります。すると人は、いったいどこへ向かうのでしょう。

ところが逆説的に、21世紀の今だからこそと言うべきか、原始回帰願望とでも呼ぶべき心象が、意識するとしないとにかかわらず人のココロに生まれ始めているというのです。人が、あるいはモノゴトが行き着く所まで行ってしまうと、自ずと原点に戻ろうとする性格があるのかも知れません。
原始とは、人が文明が手にする以前の状態を指すのでしょう。あるいは人類が大繁殖する以前、自然が地球を支配している、そのことが普通であった状態を言うのでしょう。
けれども原始回帰したくとも、21世紀の今、もはや手つかずの自然などほぼ皆無でしょう。きれいな花も美しい森も、やはり人の手入れがあって保たれるもの。かくして人の臭いのしない、人の介入を感じさせない原始に近い自然と呼べる場所を探すことは、至難の技に違いないのです。わずかにそれが残っている極北だとか深海だとかにそれを求めても、あまり現実的とは言えません。

いや完全でなくともよい、人の足跡がついていないような、そんな荒野or原野に身を置けば、回帰に近い心象が得られるのではと、実はそんな風に頭で考えたのではなく、これまた人がほとんど失いかけている“本能”に近い部分で己を突き動かすものがあり、躊躇わずにそれにしたがってみたら、大河の広大な河川敷、地平線まで見渡せそうな葦原、湿原などに足が向かっていたということなのです。
この世に偶然というのはありますが、これらのフィールドに引き寄せられそこに己が在ることに、かなり強い必然を感じられてならないのです。
ハイイロチュウヒ雌 同 左 同 左

21世紀のこの現代社会で、己の思いや存在がどうもうまくはまらない、この世を全否定するものではもちろんないけれども、どうも居心地が良くない、座りが悪いといった、謂わば“ズレ”の感覚がいつも頭から離れないという人は、多分少なくないのではないでしょうか。ただその“ズレ”をうまく言い表せない、ここがこう違うとうまく表現できないことに微かな苛立ちを常に抱きながら暮らし続ける、そのことへの苛立ち、そして焦燥。 群れていなければ人は生きてゆけない生物です。群れているからこその安心は、想像以上に大きなものなのです。けれども一人一人の潜在意識の中に、繁殖時以外は単独行動をする肉食動物の記憶、のようなものはないでしょうか。群れていれば安心だし、気が合えば楽しくもあるのですが、ふと一人になったとき、気づけばココロが解放されてホッとしていることってありますね。こんなときは、いつも感じている隙間が埋められています。そしてそのことで現実生活のバランスをとっているのでしょう。

さりとて実際にフィールドに立った時、ああズレが隙間が埋められている…、と感じるわけではありません。そんなことおくびにも思うことはありません。ただ、会社員がようやくその日の仕事から解放されて、会社から一歩表へ出た途端に素の自分に戻った感じだとか、家族と過ごしていた居間から自分の寝室に引き上げ、少し本を読んでいたら眠くなってきて、明かりを消し枕をぽんぽんとたたいて形を整える瞬間の、自分以外の何者でもない自分がいる感覚、そんなものに共通する感じがあるのは確かなのです。もちろんが猛禽が好き、猛禽が見たいという前提があるにせよ、時間と労力をかけて少し距離のあるそんなフィールドに足を運ぶのは、そうしたある種のカタルシスを求めての、そうせずにはいられない、そんな必然があってのことなのだと思うのです。目指す猛禽がよく飛んでくれれば嬉しいし、うまく写真が撮れれば達成感も味わえるのですが、現地に着き、フィールドに立った時点でほぼ過不足なく、自分は他の何者でもない自分になり切れていて、冷たい北風に顔をしかめはするものの、ココロのざわつきが消えていて、気持ちがずいぶん落ち着いていることを自覚できるのです。

かてて加えて、冬の猛禽類の姿の凛々しく美しいこと。画像に色味がなくとも、逆光でさえも彼らの存在感は抜群です。無論彼らに警戒心がないわけではありませんが、ときに人など眼中にないといった様子で、すぐ目の前を悠々と飛ぶこともあります。それもそのはず、彼らはフィールドの中で食物連鎖の頂点に近い所に位置しているのですから。何かを恐れる必要がなく、小鳥のように常に身を隠す場所を確保することもありません。その意味で彼らは、文字どおり「鷹揚」でもあります。この“おおよう”という言葉、元は「大様」と書きます。すべてに寛容で、相手を疑う気持ちや競争心などをおよそ持っていない様子、といった意味になります。で、そうした様子を、大空を飛翔して下界を睥睨する鷹の様子になぞらえて「鷹揚」という漢字を後から当てたのです。国語辞典を繰りながら「ムム、そういうことであったか。我が意を得たりでござる!」と思わずほくそ笑んでしまいました。

北海道ではアイヌの人々は、古来シマフクロウを「カムイチカフ=神の鳥」と呼び、崇め奉ったそうです。身体が大きく数も少ないシマフクロウに、神的な何かを感じてしまうことは自然なことだったのでしょう。 アイヌの人々に倣ってというのでもないのですが、なべて猛禽類には、なにがしかの威厳が備わっていると思うのは少々思い過ごしでしょうか。
シマフクロウほどではないにせよ、チュウヒや小さなチョウゲンボウでさえ、その姿に矜持を見てとれるのです。肉食であること、基本的には単独で生きていることなどがその矜持を支えているといった思い過ごしが思い過ごしと思えぬほどに、彼らの姿は凛々しいのです。
例えばコミミズクは見た目よりはずっと体が軽く、風速5m以上の風が吹くと流されてしまって危険なので、ほとんど飛びません。もっと小さなチョウゲンボウは、しかし風を捉えるのが巧みで、こちらが立っているのがやっとという強風の中でも平然とホバリングしているのとは対照的です。にもかかわらず、翼を大きくはばたいて飛翔するコミミズクの姿の、なんと凛々しく精悍なことでしょう。その飛び姿の、なんと姿勢の良いことでしょう。多くのバーダーがコミミズクに惹かれる、これも一つの所以ではないでしょうか。
コミミズク 同 左 同 左

気づけば2月ももう中旬。白梅はもう八分咲き。福寿草や日本水仙も花盛り。野に色味が戻ってきました。
やや虚無的な、まるで禅問答をしているかのような、その意味では哲学的なるフィールドからそろそろこちらの世界に戻って来るとしましょうか。梅林で、メジロが私を呼んでいることだし…。

(了)