≪撮影技術情報≫
 <第1回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第1回 タシギとスティービー・ワンダー
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今月よりエッセイを連載させていただくことになりました。宜しくお願いいたします。

晩夏から初秋にかけて、北の地で繁殖を終えたシギやチドリが幼鳥を連れて、干潟や田圃に戻ってきますね。ここで十分な栄養補給と休息をし、そのまま日本で冬を越す種や個体もいますが、やがて東南アジア・南アジア方面へと旅立っていきます。このように、春と秋に日本に立ち寄るタイプの鳥を“旅鳥”と称するようです。

平地では今の季節は鳥種も数も少なく、また暑さもあって鳥見に出るのが少し億劫なのですが、8月の旧盆を過ぎた頃から徐々にシギチが戻ってくるので、よし、田圃に彼らを見に行こうと、500mlの水筒2本の他に凍らせたペットボトルをコンビニで買い求め、 さらに日傘だのタオルだのと万全の準備をし、まるでこれから“赤道直下探検”に出かけるかのごとく目をカッと見開き、胸を張り、まなじりを決して家のドアを開けるのです。

(今夏の暑さときたら、冗談ではなくこの位の覚悟が必要でした。)

休耕田のある田圃に着く。いつの間にか稲は黄金色に変わっていて、その穂を重そうに垂らしている。一部では刈り入れも始まっている。仕事に追われ、世俗にまみれて日々を過ごしているうちに、いつしか季節は着実に移ろっていたことに少し驚く。
水を湛えた休耕田にはヒバリシギ・ジシギ・エリマキシギ・コチドリ・クサシギ・アオアシシギなどが朝の内はいたよ、とは鳥見仲間の話。この暑さで自重している方が多いようだが、それでも二人、三人と顔見知りが休耕田巡りをしているようだ。陽が高くなると鳥たちも暑さを嫌ってか、草陰にじっと身を隠して動かない。双眼鏡で覗くと、タシギらしい姿が草の中に見え隠れしている。
   
他にもいくつかの休耕田はあるが、今日はここで待つことにする。デジスコをセットし先日買った直径70pもある折り畳み傘を三脚に取り付け、椅子に座り、暑さに堪え、シギが現れるのをじっと我慢の子で待つ。日傘の効果は相当なものだが、それでも絶え間なく汗が額を伝う。熱中症が怖いのでどんどん水分を摂る。
   
すぐ後ろの原っぱになっている休耕田に、ほぼ30分おきにセッカが飛んでくる。丈の伸びたセイタカアワタ゛チソウにとまり、縄張りを主張したり、羽繕いに余念がない。シギはなかなか見えるところには現れない。このまま夕方まで出てこないかもしれない。だから時間つぶしというわけでもないが、そのセッカを撮る。逆光だったり斜光だったりと難しいが、彼が飛ぶまで撮り位置を変え、画角を変え背景を見ながらシャッターを押す。

再び椅子に腰をかけてシギを待つ。だがシギは現れない。時間の経過とともに気温はどんどん上昇する。日傘からはみ出ている部分の体が熱い。すぐに1本目の水筒が空く。黄 金色に色づいた田圃の上空をコサギやダイサギが飛ぶ。その対比は実際は相当に美しいものであるはずなのだが、その美しさを噛みしめる余裕がない。
もったいないことだが、それほど暑い。ちなみに首に巻いたタオルを絞ってみたら、コップ一杯ほども絞れたのには、驚くやら呆れるやらを通り越して、思わずムフフと笑ってしまう自分がいた。やれやれ。

お前は一体ここで何をしてるんだ? あまりの暑さに人っ子ひとりいないこの田圃の脇で、醜いほどに汗にまみれて、お前は一体何を待ってるんだ? そうまでして待って、仮に目的の鳥が現れたとして、それが一体何なのだ? 下世話なことを言えば、それで幾ばくか儲かるわけではない、そのことで名を馳せられるわけでもない、素晴らしく珍しい鳥がいるわけでもない、なのに一体お前は…

理由? それが必要なのかい? どうして色んなものに理由をつけたがるんだろう? 分からないさ、そんなこと。理屈をつけようと思えばそりゃつけられるさ。でも今、そんなものになんの意味もないことくらいは実はもうお前は気づいてるんだろう? 一つだけ言えることは、こうして鳥を待ちながら、鳥を探しながら、実は他の何かを探しているような気がするんだ。

他の何か?

それが何かなんて分からないし、分からないから探しているんだし、さらにその探しものって人それぞれ違うと思うんだ。幸運にもそれを見つける人がいる一方で、見つからずにずっと当てどなく彷徨う人もきっと沢山いる。ただ、彷徨うことは決して不幸とは限らない。むしろ彷徨うことこそが目的のような気もするし…。
ということはそれを見つけた人は目的を達成しちゃったのだから、その時点で目的を失う、むしろ寂しささえ残るのでは…。

まるで白日夢のように、次々とそんな夢想が現れては消え、消えては現れる。

と、出し抜けに、本当に前ぶれもなくわずか十数bのところにタシギが現れる。これは現実だ。ただ、絶対に出てこないと確信めいたものさえ感じていたので少し慌てる。スコープをそちらに向けるものの、なかなか導入できない。照準器を見ていないことに気づく。
入った、ピントを合わせる、もう慌てていない、いつもの漂鳥さんだ。周囲のグリーンが水に映っている。タシギはゆっくりとそこを横断する。連写する、悪くない、でも目が出ない、とにかくシャッターを押す、画角も考えてスコープを数ミリずつずらしながら、シャッターを押し続ける。

ふっと液晶からタシギが消える。目を上げると、彼は対岸の草地に向かって飛び、やがてふうわりと草の中に着地した。…

帰路、いつものように車の中でCDを聞きます。最近はずっとスティービー・ワンダーばかり聞いています。1972年発表の「トーキングブック」は素晴らしいアルバムですが、中で「Superstition=迷信」は反白人的なメッセージを含んだ激しい曲です。
タシギを撮影しての帰りの車の中で、そのSuperstitionを一緒にがなり立てます。するとスティービーとはSuperstitionとは何の脈絡もなくさっきのタシギが脳裏を横切りま す。

周囲のグリーンを映した水面に浮かび上がるように佇むタシギ、優しげで恥ずかしげ で、京都弁に例えるなら“はんなり”と佇むその姿に、まるで恋をしている中学生のようにドキドキした、させてくれたタシギ。

私はなんだか胸がいっぱいになってしまいました。運転が危険な程ではないけれど、 Superstitionを歌う声が途切れます。また、歌います、また途切れます…
 
私は「探しもの」を見つけてしまったのでしょうか?


(了)