≪スタッフ・有志の連載≫
 <第3回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

──────────────────
  第3回 初冬の記憶
──────────────────

師走らしい寒風が、路地を吹き抜ける。道を隔てた隣の竹林が大きく揺れ、木洩れ日もまた大きく揺れる。比較的がっしりとした柿の木も、強い風に左右される。人通りのほとんどない路地の日陰に立っていると、三分もしない内に体が冷え切ってくる。仕方がないので少し離れた陽の当たる場所から柿の木を見上げる。

近くに散在する、散り残った楓やアメリカハナミズキの葉を逆光に透かして見ると、その赤はまだ衰えていず、鮮烈でさえある。けれども北風に揺れるそれを、北風に身を縮めながら見るとき、それはむしろ物悲しい。一つの季節が終わり、もう次の季節が来ているのに、小さな子がイヤイヤをするように北風に吹かれて身もだえする様は、やはり少し寂しい。毎年のことなのに、やはり少し切ない。…

一つやり残したことがあった。メジロだ。
メジロはチビのくせに雑食性で、それこそなんでも食べる逞しい鳥だ。春は花の蜜を吸い、夏は幼虫を食し、秋には小さな木の実や、それから柿などの果実を好んで食べる。彼らはいつ、どこに、どんな食べ物があるかを知悉しており、例えば住宅街にある丈の低いトウネズミモチの横を通ったら、目線の位置からわらわらと飛び出してきてビックリしたこともあるくらいだ。

やり残したのは、柿メジロ。

私の中の歳時記で“柿メジロ”は、晩い秋の象徴的なシーンとして位置づいている。柿にメジロだなんて、もうほとんど様式的でさえあるし、目をつぶればどなたでも容易にそのシーンが想像できてしまう。にもかかわらず、農家が“祭り”をもって一つの節目を、農作業上の、あるいは文字通り季節の変わり目を迎えるかのように“柿メジロ”は、私の小さな節目になっている。

その時々観察できる鳥によって季節の変わり目を実感される方は多いだろう。ツグミやタゲリの姿を見て、今年も冬が始まるんだなと思われる方もいらっしゃるだろう。ヂッヂッと地鳴きの声を残しながら、低く飛ぶアオジの姿に私も初冬を思う。
けれどもメジロのような留鳥であっても早春は梅と、晩秋は柿や山茶花とともにあるとき、それぞれの季節の到来をきちんと告げてくれる。
今日はその“柿メジロ”を見に来たのだった。

ほぼ20分おきに5〜6羽の群れでメジロは柿にやって来る。その間だけ私は寒さを忘れてメジロ撮りに没頭する。柿の枝先が竹林の影に入ったり時折り日が陰ったりで露出が難しい。ああでもないこうでもないと苦心を強いられながらも、私は神経を集中させてメジロに向き合い、やがて写真とココロの印画紙に何枚かを焼き付けることができた。
 

この日、私の中で秋が終わった。

1週間後、私は人けのない河川敷を歩いていた。ここは一昨年までコハクチョウが飛来する川として地元では有名だったが、昨年から餌付けをやめたこともあり、訪れる人は少ない。それでもコハクチョウは50羽近くも来ていて羽を休めていた。

少しだけ彼らを撮影した後、河川敷を歩く。陽射しはあるが風が冷たい。けれども思いのほか鳥は多く、30種を越える鳥を見ることができた。川沿いの葦や芒はすべて枯れ、かなりの数のベニマシコやスズメが飛び交っている。逆光に佇む彼らの姿は、初冬に特有の美しくもはかなく、どこか切ない絵として私の瞳に焼き付いた。
 

また歩く。歩く先をホオジロが何羽も飛び出し、カシラダカが樹上で短く鳴く。そちこちからベニマシコの呼び合う声が辺りに響き、ビチッとひと声鳴いてシメが彼方に飛び去る。上空でオオタカが円を描き、カラスがかまびすしい。対岸の、もうすっかり葉を落とした背の高い楡の樹上でじっとこちらを見ているのはノスリ。

こんな何気ない鳥たちとの出会いが、冬の初めは妙にココロに染みるのは、いったい何故なのだろう?

さらに歩く。遠くの川の浅瀬をダイサギが歩いている。コハクチョウがその先に休んでいる…
と、一瞬、眩暈のような感覚が私に訪れる。あ、この景色はなんだかひどく懐かしい。コハクチョウなど身近にはいないのだから以前に見たことはないはずなのに、どうという景色でもないのに、それなのに懐かしさがこみ上げてくる。

デジャブ?

私は冷たい風に身を縮めながら、長い間そこに立ち尽くした。…


(了)