≪スタッフ・有志の連載≫
 <第4回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第4回 葦原に立つ
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暦の上では、という言い方があります。例えば立春。「今日は立春ですね。暦の上では今日から春ということですが、まだまだ寒い日が続きます」といった挨拶がニュースの冒頭などでよく聞かれます。確かに二十四節季などはまさに暦の上のことで、実際の季節感とは少しずれることが多いようです。

けれども1月20日頃の「大寒」は、一年の内で最も寒い候という意味では、実に暦どおりだと言えはしないでしょうか。今年の冬は寒い。冬型の気圧配置が長らく続き、雪深い北海道や日本海側の人々には苦難を強いています。一方関東は空気が乾き、雲一つない晴天の日が続きます。ときに北風が強く吹き、久々に冬らしい冬をたっぷり味わせてくれる今年の冬です。



地元に葦原がある。冬は足繁く通う。比較的猛禽が多く見られる。ノスリ・オオタカ・ハヤブサ・チュウヒ・チョウゲンボウ・ハイタカ・トビ、年によりハイイロチュウヒも観察される。猛禽だけでなく、葦原に集う小鳥も可愛い。ベニマシコ・オオジュリン・アオジなどの冬鳥のほかに、ホオジロなどの常連もよく顔を出してくれる。

この葦原は何年にも渡って工事が行われ、その間ダンプが頻繁に出入りし、常時ショベルカーが稼働していたにもかかわらず、絶滅危惧種でもあるチュウヒが、律義に毎年二羽程度やってきてはひと冬を過ごす、そういうことを繰り返してくれた。地元の人間は、それが当たり前のようにチュウヒを眺めてきたが、北関東の広大な遊水池や霞ヶ浦周辺の葦原でというのならともかく、都内に隣接し、周辺に住宅街もひかえるという環境で彼らが見られる
ことは、とても貴重でシアワセなことと言えないだろうか。

いまは工事も終わり鳥たちも落ち着いたのか、青空の制空権を争うようにチュウヒとノスリが小競り合いをしていたり、この冬はおよそ5年ぶりに13羽ものコハクチョウもやってきたりと、充実の冬を迎えている。

過日、北関東の広大な葦原を囲む土手に立つた。葦原から吹き上げて来る強風に思わず顔が歪む。被っている帽子が飛びそうになるので、タオルを帽子の上から巻く。寒い。気温以上に体感温度はずっと低い。手袋をし、マフラーで首をぐるぐる巻きにするも、体はどんどん冷えていく。鳥を見るのはやめて、もう帰ろうかという思いが脳裏をかすめる。でも、そんな風をものともせずに何かの猛禽が葦原の上を低く飛んでいる。(こんな日だって、彼は狩りをしないわけにはいかないんだな) 

そんな彼の姿に励まされるように私はデジスコをセットし、三脚を低くかまえ、猛禽類の出を待つ。


真冬の、モノトーンな、色味というものがほとんどない葦原に、ずっと以前からなぜか強くココロ惹かれ続けている。その広く単調な葦原の、まるでアクセントにでもなっているような遠くの冬枯れた立木に、ノスリが一羽ポツンと佇んでいる。双眼鏡でやっと視認できるほどの距離にいる彼は、時折り思い出したように胸のあたりの羽繕いをする以外、先程来動く気配がない。枯れ木に哲学者のように思慮深げなノスリ、まるで水墨画の掛け軸のようだ。

強風を上手にあしらいながら、ミヤマガラスが横切っていく。トビがどこからともなく飛んできて、しばらくは風に抗ってはいたものの、やがて諦めたように流されて遠ざかる。チョウゲンボウは風を捉える名手だ。風に向かい、ほとんど羽ばたくことなく中空で静止しながら獲物を探すべく、鋭い視線を地上に送っている。

逆光の向こう側にチュウヒが低く飛ぶ。この光景がすごくいい。うまく喩えたり、上手に言い表すことができない。この光景がすごくいいとしか言い様がない。間に挟む他の感情や形容詞が見当たらない、モノトーンな葦原を
モノトーンなチュウヒが飛び、それを見ている私がいる。それだけなのだ。それ以上でもそれ以下でもない。大きな自然とそこに息づく生命を目の当たりにしたとき、ちっぽけな感情のたゆたいなど、まるで今日の北風に吹き飛ばされてしまうみたいに意味を持たない。

風は相変わらず強く吹き、衰えそうもない。次第に陽が傾き始める。と、土手に沿ってふわふわと飛んでくるものが。コミミズクだ。風の強い日は飛ばないことが多いが、空腹に耐えかねたのか、風を避けるように土手に沿って飛び、悠々と私の前を横切って行った。この日コミミズクが飛んだのは1回だけだった。

場所を移動し、チュウヒやハイイロチュウヒの塒(ネク゛ラ)入りのポイントへ。夕闇が迫る午後4時半過ぎ、どこからともなく、そして音もなく猛禽が現れ始める。白っぽいハイイロチュウヒの雄が多いのは少し意外だ。懸命にデジスコで追うも、遠いのと光量不足で写真にならない。でもいい。この光景を見られればそれでいい。写真にしたいが、それだけではないのだ。

撮影をやめ三脚から手を離し、そして何羽ものチュウヒやハイイロチュウヒが次々と葦原の塒と思しいポイントへ潜り込むように消えてゆく様を、私は呆けたように見つめ続けた。

ふと上空を見やると“月は東に日は西に”見える。蕪村は菜の花の季節にそう詠ったが、厳寒期の月と日は、おそらくは春の蕪村よりもより鮮烈に私の目に映った。

 冬の日のフィナーレ…

風がすべての塵や埃や、ついでに私の目の穢れまでも吹き払い、夕陽は極めてストレートに赤く、そして月は冴え冴えと白い。辺りに人影はなく、私はいまヒシヒシと独りだ。

いっとき忘れていた寒さが私の体に蘇る。寒風が身を切りつけてくる。陽が完全に没し、冬の本当の闇が辺りを支配し始めた。もはや帰り支度をするほかはないのに、家に帰りたがらないダダッ子のように、私は葦原を去りかねた。


(了)