≪スタッフ・有志の連載≫
 <第5回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第5回 桜の季節に
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桜が咲きましたね、満開のソメイヨシノが。花つきもよく、見事と言って差し支えない桜です。ただこの見事な今年の桜は、とてもとても特別な桜です。


花の季節の到来に合わせて、早春から始まる“花メジロ”撮りを、今年もなんの疑いもなく私は始めたのでした。2月の、まだ早春とすら呼べぬ冷たい風が吹き抜ける野に、健気に咲く白梅にやってくるメジロからそれは始まりました。梅にウグイスならぬ「ウメジロ」は一見簡単に撮影できそうなのですが、思うようにはなかなかいかないのが実際です。

なので今日はこちらの梅、明日はあちらの梅と、まるでさすらい人のように出かけて行っては梅の木の下で待ちますが、メジロはやって来ません。梅は五分咲き程度の方が風情もあり、そこにメジロを合わせたいのですが、どうやらその程度の開き具合はメジロにとってあまり魅力的ではないようなのです。3月になって、ようやく数十羽のメジロが白梅に群れるシーンに遭遇でき、二日連続で撮影することができました。さらに数日後、遅咲きの豊後梅と合わせることができました。さあ次は桜です。まずは寒桜の開花を待つばかりでした。

そして2011年3月11日という、決して記憶から消し去れないだろう日がやってきたのでした。



寒桜が咲いている。春の陽射しをいっぱいに浴びて、悲しいまでに美しく咲き誇っている。暖かな風が吹き、春色の香りが辺りに漂う。雪柳や木蓮、椿に連翹…、花々が桜の周辺を埋め尽くすように咲く。爛漫の春。華やぐ花々。鳥は歌い、優しい風が吹きわたる。こんなフィールドに身を置けることの、これ以上はない贅沢な喜びにいつも浸ってきたのだった、疑いもなく、昨年までは。

当事者でない分痛みも実感できないし、想像力にも限りがある。が、毎日テレビを通じて、うず高く積もった瓦礫の山や、避難所で懸命に生きのびようとする被災民の方々の姿を目の当たりにしていると、どうにもならない無力感に襲われ続けた。いてもたってもいられず、当地の避難所へと移動された方々の所へ赴きボランティアの真似事もしたが、それで何がどう変わったわけでもない。さりとて自分がうなだれて生活して、それで何かが好転するわけもなく、では毎日鳥や花を眺めて楽しくときを過ごせるのかといえば、そんなはずは絶対になく…。本当のジレンマというのはこういうことだったのかと、肩を落とすほかはない。

ふと見上げると、寒桜の花蜜を目当てに沢山のヒヨドリが騒いでいる。メジロもヒヨたちの間隙を縫うようにして寒桜にとりつく。暫くは写真を撮るでもなく、その非の打ちどころのない桜と鳥を、私は呆けたように見つめた。ときおりこの寒桜を見にやってくる人がいるが、みな言葉少なに見上げてはそっと溜息をつき、やがて足早に立ち去ってゆく。

メジロは何事もなかったように、ひっきりなしに声で互いの存在を確認しあいながら、懸命に蜜を吸う。その健気さにうたれ、暫く彼らを撮る。シャッターチャンスはたくさんある。メジロを捉えることはそう難しいことではない。でも、花もメジロもきれいに、というのは難しい。さらに画角や花の配分や露出にも気を配るとなると、難易度は増す。コンデジ特有のシャッターのタイムラグも強敵だ。その難しさゆえにと自分に言い聞かせるように、それを胸奥にある仄暗い後ろめたさへの言い訳としながら、いつしか時の経つのも忘れて、まるでとり憑かれたように私はメジロ撮りにのめり込んでいった。

右に左に、上へ下へ、そして奥へ手前へと動きまわるメジロに合わせてスコープを振り回す私の姿は、傍から見れば異様に映ったかも知れない。私はそんな私の姿・気持ちを相対化も客観視もできないでいた。またそうする積もりもそうしたいという気持ちもなかった。何かから逃れるように、花とメジロには本当に申し訳ないけれど、そうでもしていなければ私の中で何かが崩れていきそうで、それが怖くて私は撮影に熱中した。

花は、メジロはあくまで生き生きと美しく、それなのに生き生きと美しければ美しいほど、華やげば華やぐほどそれは悲しみに満ちて見え、それをまた振り払うように、なおも私は“花メジロ”を撮り続けた。



そして震災発生からひと月が過ぎました。二次災害や原発にまつわる風評被害のような新しい障壁も出てきて、復興の青写真もまだはっきりとは描けない状況です。それでも世間の風潮は「上を向いて歩こう」的な方向に少しずつ変わってきているようです。普通に生活しましょう、普通に生活できることのありがたみを噛みしめましょう、ということのようです。

いっときよりは少し気持ちの落ち着いた私は、相変わらず花とメジロを撮っていました。花はオカメ桜だったり
花桃だったり更紗木瓜だったり…。けれども私の中で、いま、揺り戻しのような現象が続いています。表層の部分とは別に、地下深くに追いやったはずの、けれども決して消えたわけではない“動揺”がふとしたはずみに顔を覗かせます。そんな「弱さ」を追い払うように、私は桜を見に出かけます。今年の桜は見事です。これからは可憐な山桜や艶やかな八重桜が咲き始めることでしょう。そして桜前線は北上し、被災地で満開になるのも間近でしょう。

と、テレビから風鈴の音色が聞こえてきます。ん? 顔をテレビにやると、画面は岩手県の被災地の瓦礫の山を映しています。その瓦礫の中にわずかに二階部分が残った家の、その軒先に吊られた南部鉄器製の風鈴が、南風に揺られ、季節外れの涼やかな音色を醸し出しているのです。

チリーン チリーン チリチリーン…

主のない南部鉄器製の風鈴の、これは鎮魂の響きなのでしょうか。

(了)