≪スタッフ・有志の連載≫
 <第9回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第9回 少年の日
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暑さのさなか、シギ・チを求めて田圃をまわったり、セッカを見たくて河川敷を歩いたり、チョウを撮りたくて花を探したりしていると、時折り脈絡もなく過去の記憶が甦ることがあります。

少年の日。今と変わらず汗っかきなのに、でも夏が大好きな少年が、来る日も来る日も外に出かけ様々な生きものと遊んだ、その記憶が断片的に、けれどもリアルに甦ってくるのです。



「ちぇっ、また魚かよ」
毎日のように食卓の皿の上に乗る焼き魚を見て、少年は思わず悪態をついた。
すると、ものも言わずに少年の頬を遠慮ない力で殴りつけたのは、厳しい母ではなく長兄の方だった。
「贅沢言ってんじゃねえ」と吐き捨てるように一言だけ少年に向けて言い放った長兄の表情は、歳の離れた末っ子に常は優しい兄のものとは思われぬほどの厳しいものだった。殴られたことより何より、その表情が少年には怖くてならず、べそをかいたまま顔を上げることができなかった。
救いを求めるように見上げた先の母は、しかし台所に立ったまま振り返ろうともしない。兄もそれ以上は何も言わず、隣の部屋へ行ってしまった。再び母に視線を送ったが、母は変わらずに包丁を使い続けている。気落ちした少年は、見捨てられた子犬のように俯き、畳の目に指を這わす他にすることが見つからなかった。
悲しみに暮れた少年が、母のまな板をたたく音が時折り途切れることを気づくはずもなかった。まして、何も言わぬ母の思いを少年が理解するには、彼はあまりに幼な過ぎた。

母は、少年よりも兄よりも切なかったに違いない。子どもらにもっと色々なおかずを食べさせたいと最も切に思うのは、他ならぬ母なのだろうから。時代が貧しかったとはいえ、毎日のように干物を出す切なさは母にとってもいたたまれない。少年を責めることはできない。それを叱る兄も悪くない。干物がみすぼらしいわけでもない。どこの家でも毎日肉を食べるところなどなかったのだから。けれども戦後十数年を経て、さすがに食うや食わずの時代ではなくなった。プロパンガスが普及し始め、徐々に生活が電化され、人々の暮らしは戦後すぐに比べればどんどん良くなっていった。が、同時に富める者とそうでない者との差もでき始めていた。電化製品に囲まれた3DKの文化住宅に住むエリートサラリーマン家庭がある一方で、戦後と変わらず兄二人と両親との5人家族で、台風でも来れば吹き飛んでしまいそうなおんぼろ木造アパートに住む少年のような家庭も多かったのだ。



自動車部隊として満州はソ連国境に従軍していた父は、敗戦後囚われの身となることをかろうじて免れ、文字どおりほうほうの体で引き揚げてきた、その1年後に所帯をもった。けれども商売に失敗したりで、戦後のどさくさをうまく生き抜いたとはいえず、その分母は過分な苦労を背負ったようだ。「ぼんぼんに育ったからね、お父さんは。人に頭を下げるのが得意じゃなかったんだよ。商売人が頭を下げられなかったら、商売にはならないね」とは、後年母が話して聞かせてくれたことであった。母という名のつく人たちは、いつだって現実的だ。

けれども少年の父は神田生まれの生粋の江戸っ子で、重さで自室の畳の下の根太が抜けるほどのたくさんの本を読み、俳句を詠み、釣りにのめった粋人であった。事情で上級の学校へ進学しなかったかわりに、両親に頼みこんで3年間毎日図書館に通い、独学で学問をした。戦前は銀座に勤めを持ち、帰り道は毎日銀ブラと洒落のめしていたのだから恐れ入る。そんな粋を身にまとった父にとり、戦後の厳しい生活は相当に苦痛だったに違いない。現実生活と粋であることの両立は、一介の新聞社の社員でありながら、同時にスーパーマンとして人々の危機を日々救う立場にあることと同程度に難しい。

その父は、息子たちに自然との遊び方のいろはを教えた。夏の夕暮れ、ヒグラシを採りに林に入った三兄弟。ところが、うるさいほどにたくさん鳴くヒグラシを兄弟たちは見つけられない。黙って見ていた父がひと言、鳴いている木をくるりと一周してごらん、と言う。え、そんな当たり前のこと? と思いつつも子どもたちが素直に木のまわりをくるりと回ってみると、え!ほんとに? とわが目を疑わずにはいられないほどヒグラシはいくつも見つけられて、改めてお父ちゃんはスゲエなと、兄弟そろって同じ感慨を抱いた次第だった。
あるいは少年が日曜のたびに連れて行かれるのは、ほとんど釣りだった。タナゴ・モツゴ・タモロコなどの小物釣りも上手だったが、マブナ・ヘラブナ釣りが今ほど盛んでなかった頃から、川や池で、銀色に輝くそのフナを次々と釣りあげる父の姿は、少年にとって眩しく映る存在には違いなかった。



夏休みになると、少年は友だちと遊ぶことはほとんどなく、ほぼ毎日捕虫網を手にセミ採りに熱中した。ニイニイゼミから始まり、季節が進むにつれてアブラゼミ、ツクツクボウシと種類は変わってゆく。当時はまだ少なかったミンミンゼミが捕れたときは、飛び上がるように喜んだ。
セミのほかにも様々な虫を捕えた。チョウ・トンボ・バッタ・甲虫類…。
三兄弟で次々にめくられた「原色昆虫図鑑」は原形を留めないほどにボロボロだったが、三人の最も大切な一冊には違いなかった。兄たちに良かれと思って両親に買い与えられた「少年少女・世界文学全集」はいつまでも白いままだったのに。もっとも、埃を被ったまま長い間本棚の飾りとなっていたその全集は、後年風邪ひきで家に閉じこもっていた少年が、ふと手にしたことがきっかけで、少年により全冊読破されたので、あながち無駄ではなかったのだが。


高学年になると、やはり毎日のように田圃の用水へでかけ、小鮒釣りをした。流し釣りの方法ととフナが居つくポイントを覚えると、魚は面白いように釣れた。外道として釣れてしまう泥鰌・鯉・雷魚・鯰なども用水には豊富にいて、少年を喜ばせた。もちろんメダカやカエルやタニシ、ミズスマシやタガメなどの水棲動物はいくらでもいて、豊かな生態系がそこには築かれていた。


二人の兄たちは、捕獲したチョウや甲虫類を大切に扱った。というのも兄たちは、それらの虫を標本にしていたからだ。少年は幼かったのでその標本作りに参加はできなかったけれど、兄たちが心血を注いでその標本を作る過程を、瞬きも忘れて見入った。例えば何種ものアゲハチョウが、展翅版の上で徐々に翅を広げられてゆき、その奇跡のような瑞々しいデザインが姿を現すと、少年は紅潮し、息をするのさえ苦しいほどに興奮を抑えることができない。
「兄ちゃん」と、思わず声をかけてしまう少年。
「しっ!」と次兄が少年を制する。手先の器用な長兄が、少しずつ少しずつアゲハチョウの翅を広げては小さな針を展翅板に刺していく様を、少年は息をつめて見つめる。
このチョウは実は少年が捕えたものだった。網でチョウを掬い、翅の欠けなどないことを確認すると、兄たちに教わったとおりその翅を折りたたんでチョウが潰れてしまわない程度の力で胸を押す。するとチョウは呆気ないほど簡単に死ぬ。この瞬間はいつもイヤな感じがしたが、三角形に折ったパラフィン紙にそっとチョウを挟むと、イヤな感じは消えた。

標本づくりは失敗との戦いでもある。少しでもミスをすれば、すぐに翅は欠けてしまう。なのでその失敗した分だけ虫を殺してもきたことになる。標本となった虫はもちろん生きていない。けれどもその全身を惜しげもなく晒した"至高"とでも名付けたい虫の姿はいつも何かを少年に語りかけてくるようで、生きている虫以上にその虫は生き生きとした「生きもの」に少年には見えた。…




記憶は断片的でうまくまとまりませんが、私は素晴らしく貧乏な少年の日を過ごしました。でも同時に、私は間違いなく素晴らしく幸福な少年の日を過ごしたのです。時代はまだまだ実に貧しいものでした。けれども、やがて来る高度経済成長を経て人々の生活は一変していきますが、その代わりに失ったものの大きさに比べたら、その貧しさはいくらでも耐えられるものだったのだと、今にして思えるのです。ただし私は子どもだったので、そんなふうに自分の幸福さえ考えていればよかったのですが、大人たちはやはりそれぞれに苦労を背負いこんで生きていたに違いありません。

いま、私は少年の日のように無垢ではいられないけれど、相変わらずチョウや鳥を見ています。そして今でもアゲハチョウを見つけた時のココロのたゆたい、新鮮な喜びのようなものはちっとも変っていないような気がするのです。

それは、いつもいつも私が何かに渇いているからなのでしょうか?

(了)