≪スタッフ・有志の連載≫
 <第10回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第10回 再びのノビタキ
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ちょうど1年前、本通信上でノビタキの話をしました。
時は流れ季節は巡り、再びの秋です。そして野に里に、今年もまたノビタキが降りてきました。
ノビタキはいま、繁殖期の精悍で力強い夏羽から、暖かく優しげな冬羽に換羽して、秋の野の景色に穏やかにおさまっています。


秋のノビタキは切ない。秋という季節そのものも少し切ないが、夏の勢いを失い、色あせ始めた草に、単調なグリーンから、甘やかなライム色に変わりつつあるセイタカアワダチソウに、陽光を受けてきらめくアシやオギの穂先にとまるノビタキの姿は、小さく、儚く、可愛らしく、けれども切ない。



風もない静かで穏やかな午後、ノビタキを待っていると、いつしかまどろみの深みに入ってゆく……

日々の生活がある。働き、糊口を凌ぐ。楽しいことばかりではない。仕事の行方、身内の生き方、己の在りよう、己の今後、身体のこと…。現実生活のなかでもがき苦しむ、悩む、ときに身もだえもする。いつだって自問する。

これでいいのか? それでいいのか?

答は見つからない。自己否定の観念がつきまとう。他人に背を向けたくなる。考えても仕方のないことにくよくよする。語る言葉がないことに愕然となる。ここまで何も成してきていないことに、ココロが暗澹たる思いに覆われる。

―― ところが今日、僕はふと「寒い」と思ったのだ。    
  僕はきっと夢を見てきたのに違いない。   (原口統三)
       
―― ああ おまへはなにをして来たのだと……    
  吹き来る風が私に云ふ   (中原中也)

と、一陣の秋風が頬をなでる。どれほどの時間が経ったのか、既に秋の日が傾いている。
ふと足元に目をやれば、午後遅い穏やかな光を受けたチカラシバやアキノエノコログサなどが輝いている。そこから目線を少し上げれば、逆光のさなか、一羽のノビタキが、束の間まどろんでいる。



午後の光に包まれた秋の空気はどこか物憂く、大人びている。そしてその景色にしっくり馴染むのは、やはりノビタキなのだ。
その姿を見たくてフィールドを繰り返し訪れるのは、しかし彼らに癒されたいというのではない。ときめきたいというのでもなく、憧れでも夢でも希望でもない。

初夏、繁殖のために囀り、伴侶を得て、巣作りし、子を産み、育てるノビタキは、その小さな体とは裏腹に生命の力強さが漲っている。北国の、あるいは高原の澄んだ空気のもと、彼らはあくまで爽やかで、無心で、夢中で、その命を燃やす。存在感に溢れている。
けれどもいま、彼らはむしろその気配を殺し、静かに里の秋を過ごしている。囀ることはなく、争わず、自己主張せず、悟りきった僧のように穏やかに佇む。他意というものがなく、まるで定めのようにそこにいる。その姿は柔かく、たおやかで、儚い。

そのように、そこに在る秋のノビタキは、すでに一篇の詩である。言葉によらない詩である。

詩を必要とするときがある。実生活のなかで、生身で生きている日々のなかで、詩を求めずにはいられないときがある。だからノビタキという名の"詩"を見にゆく。読むのではなく詠うのでもない。詩を「見に」行くのだ。
詩の、その比喩的な言葉(姿)はまるで福音ででもあるかのように、ココロを暗く覆っていた影を少しずつ溶かし、薄めてくれる。
だから秋は、ノビタキの姿を求めて彷徨わずにはいられない。



10月の声を聞くと、自宅から近い畑地にもノビタキが毎年やって来る。ウエッティーな農地のノビタキとは違い、明るく愛らしい彼らに出会うことができる。


こんなに優しげでいたいけな彼らは、しかしこの後東南アジアやインド方面に向けて、およそ4,000〜5,000qの旅に出なければなりません。"渡り"の厳しさはここでは語りませんが、来年同じ場所で同じ鳥に会える確率は低く、むしろ奇跡的と言っても過言ではないそうです。
なれば、今年会えたすべてのノビタキに奇跡が起きることを願いましょう。奇跡は偶然ではなく、起きるべくして起きるのだと、だから己の力を信じて、その小さな翼で懸命に羽ばたきなさいと、まるで幼子を諭すように彼らにそう言葉をかけたいと思います。

そしてさらなる再びの秋、"ノビタキの詩"を見つめましょう。

(了)