≪スタッフ・有志の連載≫
 <第11回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第11回 晩秋、そして初冬へ
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秋と冬の境目は、一体どいつ、どこにあるのだろう?

そんなことを漠然と考えながら、例年よりはずっと鳥の少ない(冬鳥も留鳥すらも)フィールドを、川や池などの水辺を中心にゆったりと静かに歩きます。

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野芥子(ノゲシ)の花が、11月の風に揺れている。北寄りの風なのに、決して冷たくはない。今年の秋はことのほか暖かく、まるで二度目の春が訪れたかのように、桜をはじめ様々な花が"返り咲き"を果たしている。野の花ならばホトケノザやらタネツケバナなどが、文字どおり"小春日和"の陽射しをいっぱいに浴びて、心地よさげに咲いている。自宅近くの川べりを探鳥していたら、菜の花まで返り咲いているのを見つけ、少々驚いた。

さらに、もうとっくに枯れ果てているであろうオギがいまだに逆光を受けて白く輝き、ホオジロを休ませている。アメリカハナミズキの葉もまだ地に落ちることなく、やはり逆光のさなか、燃えるような赤色を際立たせている。例年なら花のピークが11月上旬であるサザンカもまた、満開の状態が長く続く。


そんな暖かさのせいか、今年は冬鳥の到着が遅いようだ。冬鳥が少ないせいか留鳥の活性も上がらず、フィールドはなんとなく静かで、探鳥という意味では物足りない日が続く。
もっとも自然を相手にしていればそういった「誤差」はつきものなので、さほど憂えることもない。こんな年もある。そんな時は身近な鳥を愛でればよいのだ。ただ、珍しい鳥ならば写真に収めるだけで様にもなる。けれども身近な鳥であればあるほど、納得のゆく写真は撮り難い。もっとも難しいからこそ写し甲斐もまたあるというもの。

例えば、いま里が里らしい風情を見せるものの一つに柿がある。柿の色合いは、しっとりと落ち着いた里の晩秋にとても似つかわしく、この柿と鳥を合わせてみるのが個人的に好きで、毎年、晩秋から初冬にかけての私の恒例行事のようになっている。

柿といえばメジロ・ヒヨドリ・ツグミ・カラス・ムクドリなどが常連だが、この甘い誘惑に負けてしまう鳥はほかにもけっこういる。コゲラがそうだし、シジュウカラまで実をつつくこともある。留鳥ではないがジョウビタキもとまる。ただし柿は食べない。

写真の柿は、とある農家の庭先に立っているものだ。柿そのものはいたる所にあれど、ロケーションの良さでこの柿を選んだ。実のところ、大げさでなくこの柿に出会うまで何十か所も"柿めぐり"をして歩いたのだった。たかが柿と鳥と侮ることなかれ! これでも条件というものがある。空抜けないこと・幾種もの鳥が集まる樹木やら藪などがそばにあること・順光の位置にあること(柿の撮影では逆光は望ましくない)・三脚を立てるスペースがあること・多くの場合人家の庭にあるので、直接その人家にレンズを向けることがないこと・さすがに住宅街は避けること……、ね、色々あるでしょ? これらの条件を満たした上で、しかも柿そのものが熟していて、かつ葉は落ちていなければならず、また柿の実のつきもそこそこ良いことなどを付け加えてゆくと、天文学的とまでは言わないけれど、それらの条件をすべて満たす確率は思いのほか低く、なかなか見つけられないものなのだ。

さて、良い場所は見つけた。けれども柿が熟し、鳥たちがいつやってくるかは、これは通って通ってこの目で確かめるほかはない。中秋の頃、すでに柿はつやつやと美しく、背景のグリーンによく映えていた。ところが鳥なんかな〜んにもいない。まだ熟していないのだ。柿が熟さないと撮影の機会も熟してはこない。そのようにして何度も何度も無駄足を踏む。珍鳥情報や色のきれいな鳥情報には目もくれず、今日はいるかな、明日は来るかなと足を運ぶ。お陰で農家のおばあさんとはすっかり懇意になってしまい、行くたんびにお互いにニコニコし合う仲になってしまった。

そのように、血の滲むような努力、というのは血だけに真っ赤なウソで、まあ暇だからちょくちょく顔を出していたら、さすがに柿も熟してきて鳥もやってくるようになりましたとさ。


普通種という言い方がある。珍しくはなく、比較的どこででも見られる鳥、くらいのイメージだ。鳥の撮影を始めた頃は、この普通種でも撮れればどなたでも嬉しかったことだろう。けれどもベテランになってくると、多くの場合それらの鳥には目を向けなくなる。どんな鳥を目指そうと、もちろんそれは各人の自由だけれど、そこらへんの鳥さんをもっと愛でてもいいんじゃないでしょうかね。最初はヒヨだってカワウだって撮りましたよね。ちゃんと撮れたらシアワセでしたよね。
世界に2000羽しかいない鳥が撮れたときは嬉しいですね。でもその珍鳥もヒヨも同じ鳥ですね。優劣・高低はないはずですね。同じ野鳥ですよね。ならば、ヒヨやカワウを軽んじることは、実のところ己の世界を狭くしてしまっていることになるんじゃないでしょうか。それをつきつめたら、稀少種だけが、ライファーに入っていない鳥だけが自分の目的になってしまい、しまいには撮るものなくなっちゃいますよね。

鳥を撮影しようとするときの"視点"は様々であっていいですね。上のジョウビタキは柿にとまってくれたから、この柿を一緒に写さない手はない。でも、ジョウビタキ自身はきれいな鳥でもあるわけだから、うまく近くに来てくれたときは大きく写すのもアリでしょう。
飛びものなんかでも、普通はシャッター速度をなるべく上げてと考えますが、ときに遅くして翼の動きや背景ををブレブレにさせる手法もアリでしょう。定石や基本はあるけれども、そこから逸脱する自由さもあっていいわけで、それがまた楽しさにも繋がる。

そのような自由な視点での色々な撮影の仕方で臨んでみれば、実は普通の鳥でもとっても新鮮で魅力的な被写体(この言い方はあまり好きではないが)に変わるはずですね。もちろんいつもいつも変わった方法で撮影するわけではないですが。


そんなことで、今日もまた近所の川っぺりや葦原を歩いては普通の鳥たちとの出会いを楽しむ。そしてココロ穏やかに彼らを撮影する。ココロ穏やかにゆっくり歩めば、野鳥とてそう無闇に逃げるものでもない。イソシギがいる。カワセミも飛んでくる。鳥だけじゃない。ノラがいる。ポン太だって現れる。

それにしても、それら生きとし生けるものたちのなんと健気で混じりけがなく、愛らしくも逞しいことよ。鳥であれ獣であれ、普通種であれなんであれ、野に生きる生きものは厳粛で崇高でさえありはすまいか。それぞれがそれぞれの環境に適応して生を営む姿に、分け隔てはない。数の多寡も問題ではない。生態写真と思わず、記録写真と思わず、彼らと出会えたことを、今同じ時間を共有できていることの喜びを胸に秘めながら、メカとしての、ハードとしてのカメラに魂を吹き込むがごとく、まるまる今ある自分と自分の思いを、静かに、穏やかにレリーズを介してシャッターボタンに押しこんでみる。
するとどうだろう。生きものたちが、魂を吹き込まれたスコープやカメラを通じて、その飾らない姿を垣間見せてくれるのだ。

   


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師走に入ったある日、冷え込んだ早朝に川へ出てみると、朝もやの中に佇むカルガモに会えました。
さらに遠くの葦にとまるモズの風情をカメラに収めたとき、今年の秋が終わったことを悟ることができました。
今日から冬です。凛とした冷たい空気が、きっぱりとそう宣言していました。


(了)