≪スタッフ・有志の連載≫
 <第15回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第15回 山の鳥、海の鳥
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少々手あかのついた言い方になりますが、それでもやはり「風薫る五月」ですね。
木々の緑はあくまで清新で穢れなく瑞々しく、吹きわたる風は幼な子の笑顔のように他愛なくソフトで五感に心地よい。


 若葉して木々のこぞりて囁けり  ―大久保恵美子

山の青葉・若葉は、平地のそれに増して清々しいものです。わけても早朝、薄明の中を樹上で囀り始めるオオルリの声ほど胸ときめくものもありません。オオルリのみならず、コマドリ・ウグイス・コルリ・ミソサザイ・センダイムシクイ・エゾムシクイ・ルリビタキ・キビタキ・クロツグミ等々の夏鳥たちが一斉に歌い出す山の朝、徐々に辺りが明るみを増し、木々の浅い緑が目に染みるように映りだす、そんな時間を"至福"と呼ばずしてなんと呼びましょう。
さらに昨日と今日、今日と明日とではその色合い、空気、鳥の種類、花の盛衰などが微妙に変化してゆくわけですから、今日の出会いは、今日の鳥の声は、今日見たイワツツジの色合いは今日だけのもので、二度と同じ出会いはないわけです。

すべての出会いは"一期一会"なのですね。

今朝見たオオルリの姿は、今朝聞いたオオルリの声は偶然なのか必然なのかは定かでないにせよ、その出会いは決して大げさでなく一生に一度のもののはずです。そう思えば、いま目の前で懸命に囀るオオルリの姿のなんと初々しく健気なことでしょう。

山の大きな懐に抱かれて鳥たちの囀りを見聞きする。そんな風に自然に身を委ねていると、しだいに体から力みが消え、五感が研ぎ澄まされココロからも邪念が消えてゆき、いつしか己がその自然に溶け込んでゆく、木々の緑や鳥の声、朝の冷涼な空気と一体になっている自分がいる、そんな感覚に陥ることがあります。

原始信仰とでもいうのでしょうか。山には、きっと多くの精霊が住んでいるに違いありません。




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東京湾最奥の干潟にいます。
震災の影響は数百キロメートル離れたこの東京湾にも及び、およそ1年以上もの間この浜は封鎖されたままでした。それでもこの春、ようやく復旧なって潮干狩りなども再開されるようになりました。
GW中とあり、また干潮が午前の早い時間に来ることもあり、早朝から続々と潮干狩りを楽しむ方々がつめかけます。臨時駐車場になんとか車を停め、干潟に向かいます。
案の定砂浜はすでに潮干狩り客のカラフルなテントで埋まっています。こんな日に鳥を見に来ている人なんているのかしらと訝しみながら先に進むと、かろうじて5名ほどのカメラマンが沖合を見つめています。

ああ、いますいます、沢山の鳥が採餌しています。
ハマシギ・ミユビシギ・キョウジョシギ・トウネン・ダイゼン・オバシギ・オオソリハシシギ・キアシシギ・メダイチドリ…
前回この干潟を訪れてから、まる1年と5カ月もの月日が流れました。この間、ああ干潟に行きたいな、たくさんのシギチを見てみたいなと何度思ったことでしょう。もっとも鳥たちにとって、人がまったくいない干潟で何かに脅えることなくのんびりと過ごせることは、せちがらい日本の、それも首都圏での鳥ライフを送る彼らにとり、ココロ休まる安息の日々だったに違いありません。

ところが前述のように、干潟が再開された途端、数百人の(もっとかな?)人間が押し寄せ、鳥たちはやむなく干潟の端っこに追いやられてしまいました。ただ、潮干狩り用に区切られたエリアは、およそ200bほど。干潟そのものは東西に1キロメートルあまりあるので、なんとか鳥たちが採餌したり休んだりできるスペースはあるのです。
が、そうまでしてこの地に踏みとどまろうとするのは、裏返せば他に適当な採餌地、休憩地がないということなのです。

かつては東京湾内の至る所に広がっていた干潟が、戦後の経済復興、あるいは高度経済成長期という過程を経るなかで、干潟という干潟が次々と埋め立てられ、巨大工場や港に様変わりしていったのでした。一方で公害問題など、経済優先の施策の弊害が顕在化していったのも時期を同じくしていたのです。環境への配慮などの意識は薄く、ましてや生物多様性の重要性といった発想そのものがなかった時代です。
その陰で、繁殖に、あるいは重要な中継地としてそれらの干潟を利用していた何万という数のシギやチドリが行き場を失い、姿を消してゆきました。

そんな変遷を経て、しかしこの干潟だけは埋め立てを免れ、ほとんど奇跡のように残されたのでした。もちろん埋め立て計画は何度も発案されたのですが、その都度環境団体や千葉県の働きかけで中止されました。東京湾の水質も徐々に浄化され、魚貝類も増え、干潟の環境も整備されて現在に至るのです。
さすがにかつてのように何万もの鳥を見ることはできませんが(冬に集結するスズガモだけは万単位になるようです。また現在でもそら恐ろしい数のカワウが西から東へ途切れることなく飛ぶ様が見られます)、それでも季節により1,000〜2,000羽のシギ類・チドリ類・カモ類・アジサシ類を見ることができます。

今回は小型のシギ類およそ1,000羽ののほかに、ミヤコドリが60羽ほど、アジサシが100羽ほど、オオソリハシシギが50羽くらい観察できました。他にチュウシャクシギ・ホウロクシギ・コアジサシ・ユリカモメ・カモメ・サギ類などが見られました。あいにくの天気でしたが、久々に広々としたフィールドを鳥たちが闊達に飛びまわる様を観察でき、またアジサシの飛翔などが撮影できて、私自身にも溜まっていた鬱憤を少し晴らすことができました。


母なる海。豊饒の海。
海なし県に住む私にとり、海は別次元であり憧れであり、畏怖を、いや畏怖そのものと呼んでも過言ではないのです。そしてもちろん海は多くの生物を育んでいるわけですが、そのことはテレビや映画などの映像を通して繰り返し見てはきましたが、それはあくまでバーチャルな体験に過ぎず、実際にこの目で見た海とそこに息づく多くの生命とは、これが実に面白く、生々しく、美しく、案外たどたどしく、ドジだったりすらするのです。

貝を食べようとして、その貝に嘴をがっちり挟まれて困り顔のトウネン。片足がないハマシギ。見事な飛翔を目の前で披露してくれるアジサシ。けれども海に飛び込む回数に反して、魚を咥えて上がってくる率の低さ。ゴカイを砂の中から引っ張り出そうと懸命なメダイチドリ。そのゴカイの延びること延びること! 4pのゴカイが30pにも延びる!
編集・校正されていない現実の海と生き物。そこには新たな発見や面白さが詰まっていました。

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五感で受け止めることのできた山の精霊の存在。オオルリは、もしかしたらその精霊たちのメッセンジャーなのかも知れません。
一方、ふと気付くと、鳥たちに囲まれていた大潮の干潟。鳥たちは私の存在を無視して、3bのところで平気で餌を採っています。無視される存在になりえた自分が嬉しくて、私は一人ほくそ笑んだのでした。

これが今年の5月の出来事です。

(了)