≪スタッフ・有志の連載≫
 <第16回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第16回 6月の詩
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立葵の花が風に揺れている…

花びらにそっと触れてみる。ぐんぐん伸びる茎や葉は野趣あふれているのに、花は高級ティッシュペーパーよりももっとソフトで、ソフィスティケイトという言葉を形に表したときの一つの典型のように、涼しげに微笑んでいる。パステルカラーの明るい花たちの華やぎは、Juneという名のコロンを惜しみなく辺りにまき散らしているかのようだ。
毎年この花を見るたびに、6月の花の優しさが思われる。ウエッティーで少し蒸し暑くもあるけれど、その分しっとりと落ち着いた6月という季節そのものの優しさ思う。

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6月は美しい季節です。草の緑が、木々の緑が日々深まり、園芸種・野種を問わず様々な花が咲き、それに合わせるように多種多様の生き物がが出現します。緑も花もそうですが、鳥や虫たちのそれぞれのなんと美しいことか。そんな生き物に接していつも思うのは、この美しさはいったい何なのかということ。単に雌の気を惹くためという説明ではとても割り切れない、不可思議で神秘的とさえいえるその色合い・造形を前に、思わず固唾を飲んで見つめてしまうこと、しばしばです。創造主は(そういうものがいるとすればですが)、ときに人間の想像力など遥かに超えて、我々の思いもよらない色や形を生き物たちに提供します。

多くの種類のチョウがきれいなことは万人の認めるところであり、デザインや絵画のモチーフにずっと使われ続けてきたことを見てもそれと知れます。けれども、決して珍しくもなく、人目にふれることも少ない、例えば1pあるかないかのコガネムシの仲間の中にも、日の光を受けて金色に輝く種がいたりします。きみはいったい何のためにそんなに光り輝くのだろう、と問いかけてみたくなるほどです。

それではすべての甲虫類がメタリックに輝くのかといえば、それはノーなのです。コガネムシの別の種類の、あるいはオサムシ・シデムシ・ゴミムシのように一生地上を這いまわる虫たちの色や形は、人の目には地味でダサい。生まれ変わりということがあるとすれば、少なくともこの連中のようにはなりたくないなと、彼らには悪いけれどついつい考えてしまうようです。

暗い林床を、人の足音に驚きよたよたと逃げ惑うシデムシの姿は哀れです。そんな思いは人の側の一方的なものに過ぎないと重々承知はしていても、やはり哀れです。見なかったことにして、踏まないように気をつけながらも急ぎ足でその場を立ち去るのが常です。

注目される存在と、顧みられることのない存在。同じ生命としてそこに在りながら、そのように色分けする私は、なんて身勝手でなんて一方的で、なんてジコチューな人間でしょう。一歩下がってみたら、そんな己が見えました。
きれいなもの、可愛らしいものは誰をも惹きつける。それは人の自然な思いなのだから否定はしないけれど、生きとし生けるものに本来区別はないはずですね。理想論をかざす積もりはありませんし、私もさすがにゴミムシの写真を撮ろうとはしませんが、それでも彼らを足元に見つけたら、やあゴミムシくん、今日も元気でやってるね、と声をかけるくらいは(もちろんココロの中でです。本当にしてたら完全に引かれますから…)してあげようと、そう思います。

さあ、そうはいっても美しい6月ですから、そんな画像も見ていただきましょう。
きれいなベニシジミ、ヒオドシチョウです。


トンボもたくさん出てきました。
オオシオカラトンボにはクモくんもおつきあい。ハグロトンボは翅の動きのブレたものを。


ジョロウグモの幼生でしょうか。これはこれで…


鳥の世界でも、カラスを石持て追い払う輩も見かけますが、カラスもねえ、これで案外面白い、そういう面もあるのですけどねえ。


6月。この麗しき季節に多くの鳥が子育てをします。1年の内で、いえ鳥の命の長さを考えれば、鳥たちにとっては一生の内で最も大切な今年の6月かも知れません。生き物の本能、いや明確な意志として鳥もまた子孫を残すこと、子を産み育てることに全力を注ぎます。それはもう健気だとか一所懸命といった形容詞では収まりきれない、壮絶で命がけで、かつ厳粛な営みなのです。

例えばアオバズクは、孵ったひなを狙ってやってくる、親の体の何倍も大きいカラスに猛然と体当たりをして追い払います。狡猾でしつこいカラスは、ひるむことなく何度も何度も巣に近づきますが、その都度アオバズクの親の体当たりは続きます。それを繰り返せば、アオバズクの体力はどんどん落ちてゆくはずです。
鳥の種類によっては、子育て前と後とでは、その体重が半減してしまうものもあるそうです。痩せ衰え、命を落とす親も少なくないそうです。繁殖時の雛の、そして親の側も、野鳥はその生存率が決して高くないうえに、多くの種にもう一つの”命がけ”である「渡り」も待っているわけです。そんな事情を考えれば、今、目の前にいる野鳥の姿は、実はとても少ない確率で生き残った"奇蹟の鳥"なのかも知れないのです。

子育て後も、なお暫く子どもたちが一人前になるまでは、親の務めは終わりません。

こちらはカワセミの親子。奥がお父さんで手前が子ども。子どもは他にもう一羽近くにいます。奥のお父さんは体をぐっと伸ばし、緊張感が漲っています。なにか気になるものがあるのでしょう。
子どもたちはずいぶん大きくなっていて、もう餌取りも自分で行っていましたが、それでもまだ自立はできないようで、ずっとお父さんがそばから離れずにいます。野鳥は自分一人生きてゆくのさえ大変だろうに、こうして全身の神経を張り巡らせながらの子育てを目の当たりにして、私はすっかり彼の"トリコ"になってしまいました。
なぜって彼は男らしい責任感に溢れ、その視線はあくまで鋭く、緩みない緊張感を全身に漲らせるその様は、他に喩えようもなくカッコよくて、それなのに美しいからです。

野の生き物たちは、なぜこれ程までに美しいのでしょうか。きれいな虫、きれいな鳥だけが美しいのでは決してありません。
それはやはり野生ということではないでしょうか。誰かの何かの庇護を受けることなく、己の力=生命力だけで生きてゆく、その力強さこそは美しいのではないでしょうか。天敵の存在、厳しい渡り・子育て、環境の悪化等々、生きてゆく上での障害はいくつもありますが、それらをなんとか乗り越えて生きてきた、生きてゆこうとする懸命な姿こそは美しいのではないでしょうか。

6月は美しい季節です。草の緑・木々の緑、咲き誇る花々。そして多くの命が誕生する季節。
メダカが減った、スズメが減った、ツバメの姿も今年は少ない。そんな負の情報にココロ痛みますが、それでもいまそこに、多くの鳥や虫がまだ沢山います。
では来年の、5年後の10年後の6月に、世代は変わっていても再び彼らとまみえることができるでしょうか。その未来おいても、美しい日本の6月を、私は愛で続けていられることでしょうか。

(了)