≪スタッフ・有志の連載≫
 <第22回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第22回 春愁
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浮き立つような春景色に目を奪われます。
桜が早くに終わっても、滞ることなく春の花々が追随して開き、草や木々の緑が、それを追いかけるように浅緑の眩しい色彩を投げかけてきます。
生き物たちも、その暖かさを待ちかねたように一斉に外へ飛び出し、色彩を、甘やかな風の香りを、生気に満ち満ちた野を慈しみ、享受しています。


カクムネベニボタル(角胸紅蛍) ヤマブキ(山吹) ヒキノカサ(蛙の傘)

野にも山にも街にも、その柔かな風は等しく吹き抜け、同じ生き物である人ももた
手放しでその幸福を受け入れていいはず、ですが…。



カラシナ(芥子菜)の黄色が川の土手を埋めつくしている。見事な景観だが、鳥を一緒に撮ることは難しい。難しいのは、そうそう鳥がカラシナに留まるわけではないことと、仮に留まってもただウルサイだけの画になりがちになるという両面を指す。ではどうしたら、と考えていると、折りしもまだ北へ帰らない鴨たちがゆったりと目の前を横切って行く。気づけば水面に芥子菜の黄色が映り、そよ風とカモがたてる小さな波のたゆたいとが相まって、それはそれはメルヘンのような美しさ。私は夢中になって何種ものカモたちにレンズを向けた。

カラシナ(芥子菜) コガモ(小鴨) カラシナ(芥子菜)

春風に吹かれながら、また歩く。
草花も、鳥も、景色も、どうぞ私を撮ってくださいといわんばかりに私を待ちかまえる。どれもこれも魅力的な被写体だから次々とシャッターを押してみるものの、哀しいかな画にならない。花も鳥も虫も大きく写したり引いてみたり、あるいは前ぼけ・後ろぼけ、構図、絞り具合などの写真に関しての貧困な知識を総動員しても、ダメだ、画になってないや。オリジナリティーの欠片もないや。
元々音楽や体育は得意だったけれど、美術は散々だったからなあ、向いてないのかもなあ。
まあ自分に愚痴ること愚痴ること、いつまでも止まりません。情けない…。
そんな思いのまま、土手上から遠くを見るでもなく見やりながら、徒に時間だけが過ぎてゆく。

春も深まりを見せるようになると、他のどんな季節よりも物思いに耽るようになるのは、私だけだろうか。
自然のなかに身を置き、花だ虫だ鳥だと一喜一憂する自分を、ふと客観的に見てしまうことがある。ふと虚無感に覆われることがある。…

【鳥や花や自然を見るようになって随分経つけれど、なんだか少しも充足感がないな。頑張った感もやりきった感もないな。思えばこれまでしてきたことって、みんなそうだ。仕事も趣味も勉強もぜんぶ中途半端だ。徹底するということがない。徹すること、そういうのもみんな才能なのかな。だとしたら、自分にはなんの才能もないということかな。それならそれで凡庸に徹すればいいのに、ムダにあがくから余計にいけない。

ほら、絶好の位置に鳥が留まった。四の五の言わずにパパッと写せばいいのに、やれ構図がどうの、絞りがどうのと言っているから、ほら、飛んでっちゃったじゃないか。喩えて言うならこんな感じかな。実際にはそんなにもたもたはしていないけれど、この不徹底感、ダサさ感たらない。プロとかアマとかでなく、センスに溢れた人の写真はみんなカッコいい、ダサくない、芯がある、意志がある、信念がある、熱もある、意味もある、示唆に富んでいる、そして内側からの美しさがにじみ出ている、行間の言葉が読み取れる、そう思う。
ことは写真に限らず、すべて一流とはそういうことだろう。

然るにお前の写真はいったい何? 芯がない、意志薄弱、熱はあるが意味がない、もちろん示唆にも美しさにも欠け、面白くない。自分の生きてきた過程って、思えばみんなそんなだったんじゃないか? なぜにお前はそう中途半端なんだ? うわべだけ良ければそれでいいのか? そんなに重々しく、しかつめらしく考えるのは流行らないって? バカだなあ、お前。自分の生き様を流行りすたりで考えるのか? 面白おかしく生きて死んでゆく、それで満足ならそれでいい。全然いい。でもお前は、それでいいとは思っていないだろう? 何か自分の中に足跡を残したいんだろう? 誰のためではなく、己が充足したいんだろう? そのために真剣に取り組まなくちゃと考えているのだろう? だったら何故徹底しない? なぜすぐ飽きる? なぜそう軽い? なぜ? なぜ?

だってさあ、日頃の憂さとかあるじゃやないか。仕事や人との関わり、写真ならその価値観の違い、取り組み姿勢の違いとか、いろいろあるじゃないか、障壁は。ああ、分かってる分かってる、そんなの言い訳に過ぎないことくらい。意志がね、弱いだけなんだ。子どもの頃からずっとそうだったんだ。自分でも気づいているんだ。だから自信めいたものも持てないんだ。
分かってるんだ。写真でいえば、ただ好きなだけじゃ、ただたくさん撮るだけじゃダメなことは。それでは充足感には至らないことも分かってるんだ。ただ珍しいだけ、ただ大きいだけ、ただきれいなだけの写真では充足できない、さりとてそれをカバーするセンスや才能がない、そのジレンマに陥ってることはずっと前から分かっていたさ。
じゃ、どういう方向を目指せばいい? というより目指す方向はあるのか? この閉塞感から抜け出せる方角を、見渡す限り茫漠と広がる砂漠や大海原にポツンと投げ出されたような状況から、広いような狭いような、そんな所から抜け出せる方角を見つけだすことは可能なのか?】

物思いはじわじわと深まり、いつしか傾き出した陽が私の横顔を照らし始めていることすら気づかないようだった。ツバメがキュキュっと鳴きながら頭上近くを飛んだ、その声で私はようやく我に返り、辺りを眺め回した。けれども春の午後遅い時間帯ではほかに鳥も鳴かず、草花の生気も薄れ、写真を撮ろうという気力も失せていた。私はのろのろと機材を片づけ、重い足取りで帰途に着いた。…



「チョビチョビ、グィー チョビチョビ、グィー」
センダイムシクイです。1年ぶりに彼の声が聞けて、ココロが単純に喜んでいます。樹上の高みで鳴いているので、もちろん写真なんか撮れません。でも、そんなことはちっとも気になりません。あの地味で、わずか12〜3pしかないちっぽけなセンダイムシクイが、遥か数千`の旅を経て日本のこの平地の森にたどりついて、元気に鳴いている、その声を聞けるだけでちょっと感動してしまいます。

渡る鳥の生還率がどれほどなのかは、種によっても渡る距離によっても違うのでしょうが、一説では50%に満たないだろうと言われているそうです。つまり半分以上が渡り途中に落鳥したり、途中うまく栄養補給ができなかったり、病気になってその小さな命を落とすのでしょう。例えば毎年庭にやって来るジョウビタキが(冬鳥ですが)同じ個体かどうかという議論があります。何か大きな特徴のある(ちょっとした疵だとか)個体であればそれが判明できるでしょうが、いずれにしてもそれが数年続くようなら、もうそれはほとんど奇跡に近いものなのだそうです。なぜならジョウビタキは、一番遠いものではバイカル湖周辺からやってくるといいますから、直線距離にして3,000q超、往復6,000q超、もし3年それが続いたら彼(彼女)は計18,000q超飛び続けてきたことになるからです。いくら翼を持つ鳥とはいえ、ムシクイよりは大きいものの、スズメほどのジョウビタキがそんな距離を移動するとは、どうしても実感をもって捉えられないのですが、これは事実なのです。
夏鳥の場合は東南アジアやオーストラリア方面から移動してきますが、遠いものでは片道なんと4,000qを超えるというから半端ではありません。

そういうわけですから、今、私の頭上でチョビチョビ、グィーと、知らない人が聞いたらとても鳥とは思えない声で囀るこ奴は、もしかすると4,000qの旅を終えて今日到着したかも知れない、実にただならぬ奴なのかなと想像すると、もうもう自ずと頭は垂れ、目頭は熱くなり、興奮と感動で胸いっぱいになる、というのはあまりに言い過ぎですが、とにかくエライやっちゃ、であることは間違いないのです。

ずっと行かなかった平地の森に最近は行くようにしています。元々探鳥地で有名なフィールドですが、昨今多くのカマラマンで賑わっているようなので遠慮していました。でも、やはり夏鳥の声を聞きたいという単純にして純粋な動機から足を運んでいます。ところがオオルリ・キビタキ・クロツグミなどの鳥が入ったという情報が流れた途端、昨日まで冬鳥と閑古鳥しか鳴いていなかった森は、多くのカマラマンで溢れかえりました。そのことは構わないのですが、森の小道を歩くだけでは飽き足らず、道なき道を下草を踏み分けてオオルリを追いかける人があまりに多く、踏みつぶされる野草があまりに痛々しく…。
チョウジソウ(丁字草)昨年5月 セリバヒエンソウ(芹葉飛燕草)
けれどもそういう方があまりに多くて注意する気もおきず、そのままほとんど探鳥することなく隣の森へ移動し、ほぼ誰もいないその森でセンダイムシクイの声を聞いたのでした。

春の愁いはいろんな方向からやってきます。
ただこの愁いはいずれもすぐに解決できそうなものでもなく、だからといってここで降りてしまうわけにもいかず、いろんな"思い"を抱えながらもなんとかやって行かなければならないのが人の道なのでしょう。
そうこうしているうちに、季節は4月も末になろうとしています。物憂い春はもうすぐ終わり、清冽な初夏を迎えます。もう地元でオオルリを追いかけることはないでしょうが、人のいない山へ、夏鳥の声を存分に聞きに行きましょう。運がよければコルリやコマドリの姿も見られるでしょう。

きっと人の愁いは死ぬまでつきまとうことでしょう。でも夏鳥の高らかな囀りは、世俗の垢にまみれたココロに一陣の涼風を届けてくれることでしょう。その涼風を感じたとき、迷いは少しだけ消えるような気もするのですが、果たしてどうでしょうか。
キビタキ(黄鶲)一昨年5月 オオルリ(大瑠璃)一昨年5月

(了)