≪スタッフ・有志の連載≫
 <第23回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第23回 光と影
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例年よりずいぶん早く、関東地方も梅雨入りしました。これから2ヵ月近く、蒸し暑くうっとおしい鉛色の空とつき合わねばなりません。けれども梅雨は日本の雨季であって、この季節の雨は農作物を、森を、そして多くの水を使う人の生活をも潤す大切な雨です。日本は東アジアの、その東の末端に位置しますが、それでもアジア特有の太平洋からの湿った季節風=モンスーンの影響下にありますから、さらに地球温暖化の影響も手伝って、日本の夏はほぼ亜熱帯気候に匹敵します。

梅雨入り前の5月、世界は初夏の陽光(ひかり)がこぼれんばかりに満ち溢れ、草に木々の葉に、鳥にも花にも、蝶も蜂も名も分からない小さな葉虫にも、その陽光(ひかり)は分け隔てなく惜しみなく与えられ、それ故世界はキラキラと輝き、この季節を祝福します。

暮らしのなかで、人は様々な障壁や鬱屈、うまくいかないこと、メンドクサイ人間関係、思い通りにならないことなどに苛立ち、腹を立て、心配し、時に涙し、ココロを傷めたりします。それでもひとたびその陽光(ひかり)溢るる世界に身を置けば、多くの人は、世界がかようにも美しく魅惑的であることに気づくことでしょう。花は咲き鳥は歌い、小さな虫でさえ、その輝きを全身で表現します。
光のスイレン(睡蓮) オオヨシキリ(大葦切)歌う クロイトトンボ(黒糸蜻蛉)の結婚



光の裏側には必ず影があるように、人の良心の裏側にも暗部があることを、この春の終わりに思い知るできごとがありました。普段どちらかといえば触れたくない、触れずに済むのであればそうしたい人の心の暗部を否応なく目の前につきつけられ、暗澹たる気分から暫くは立ち直れず、そして少し時間が経過したのちに、私は様々なことを考えました。そのことにつき記し、多くの方に読んでもいただきました。

都市部にある、鳥を観察・撮影できる"水場"でのこと。折りしも渡り途中のコマドリが立ち寄っていて、多くのバーダー・カメラマンが来ていた、その目前でそれは起こってしまいました。コマドリの出現をじゃまするかのように、一羽のシロハラがのこのこ出てきたのです。もちろんじゃまと感じるのはカメラマン側ですが。そしてあろうことか、一人のカメラマンがそのシロハラをどかそうと石を投げつけたのです。放たれた石はシロハラに当たり、ほどなくそのシロハラは命を落としたのだそうです。

いま、この貴重な通信上で、私の思いを繰り返し記す積もりはありませんが、亡くなったシロハラ自身への鎮魂の意味を込めて、少しだけ彼の気持ちにココロを寄せてみたいのです。

―ヒン、カラカラカラララー…
ああ、今日も朝早くからコマドリくんが鳴いてるな。う〜ん、なんていい声なんだ。僕たちシロハラも、繁殖地である中国東北部に渡った際は、森の中でよく響く声で「キョロン、キョロン」とけっこういい声で鳴くんだよ。でも、寒さを避けて日本で冬を過ごすときは、地味な地鳴きの声しか出さないから、知らない人も多いんだろうなあ。でも、オレンジ色の色合いや、雌に強く訴えるあの独特の囀りには、僕らシロハラはかなわないような気がする。
でもいいんだ。この水場でこうしてコマドリくんと共生できるのも、せいぜい2週間くらいだしね。それに僕は彼の声や姿は大好きだから、毎年この時期に一緒に時間を過ごすのを楽しみにしているくらいなんだ。

この水場にはいろんな鳥がやってくる。春のこの時期だから、僕たちみたいな帰る前の冬鳥、暖かな国からやってきたばかりの夏鳥、日本の山と平地を行き来する漂鳥、スズメくんやオナガくんのような留鳥たち。正直いくらか力関係はあるけれど、でもみんな仲良くこの水場をシェアしてるよ。ときどきツミくんやオオタカくんのような恐ろしい連中が来て僕たちを慌てさせるけど、まあまあ平和な毎日を過ごしている。
ただ、僕たち小鳥は、どうやら人間という生き物たちに人気があるらしくて、連日多くの人の目に晒されながら水場を利用しなければならないのには、ちょっと閉口している。あのどでかい一つ目(カメラレンズ)で覗かれるのも、あまり気持ちの良いものじゃない。
えっ、気づいていたのかって?
当たり前さ。僕たちは100b向こうに人がいるのさえ知ってるんだ。野鳥に近づくと、たいてい飛ぶでしょ。あれは人間が近づいて気づいたんじゃなくて、もっと前から知ってたんだけど、その距離を測っていて、これ以上は危険かなと思ったときに飛んでるわけだ。その距離感が鳥種によってかなり違うんだね。ヤマガラくんみたいにやたら人懐っこいのもいるけど、彼が単に大胆なわけじゃなくて、基本的に人間は僕たちに危害を加える動物じゃないって知ってるからなんだ。頭がいいんだね、ある意味ヤマガラくんは。

ただ僕たちは、餌には弱い。野鳥が生きるということは、ほとんどイコール食べることだ。食べられれば生きられるし、食べられなければ衰弱する。だから、苦労なく食べられるのなら、少々のことは全部がまんしちゃうんだ。カメラマンと呼ばれる人種のなかには、餌を蒔いてぼくたちを足止めさせて写真とやらを撮る連中もいるね。ヒエやアワ程度ならまだ可愛いものだけど、ミルワームみたいな動物性の餌を食べ続け、丸々と太ってしまったコマドリくんやルリビタキくんをこれまで何羽も見てきたけれど、中には太り過ぎてうまく飛べなくなったり、安易に餌が採れるものだから、そのうち自分で餌採りをしなくなるのもいたね。

僕? 僕たちシロハラは、幸か不幸か餌をくれるほど人気はないから、いつもいつも薄暗い林床で落ち葉の下の虫を突いているよ。

さて、今日も水浴びに行くとするか。羽毛は僕たち鳥の命みたいなものだから、冬でもなんでも水浴びをして清潔に保っておかないといけないんだ。翼がダメになったら、僕たちは確実に生きていけないからね。人間の使う比喩にあるじゃないか、翼を失った鳥のように、とか、翼の折れた○○とか。

コマドリくん、悪いね、先に水を使わせてもらうよ。ああ、今日も人がいっぱいいるなあ…

痛っ! 何かが飛んできて、僕の頭を直撃したらしい。痛い…、すごく痛い…、いったい何がどうなったんだ、ああ、なんだか目の前が暗くなってきた、ああ、もう立ってられないや。………ん? 人間の誰かが僕を拾い上げてくれたみたい。ああ、なんて優しい掌なんだろう。柔かくて、暖かくて…。とってもシアワセな感じもするけれど、でもなんだか気が遠くなってきた。…

「だいじょうぶ? シロハラさん、だいじょうぶ? お願い、死なないで。どうしよう、獣医さんに連れて行こうかしら。この近くに獣医さんあったっけ? シロハラさん、シロハラさん、今お医者さんに連れて行ってあげるから、お願い、頑張って、死なないで」

その優しく暖かな手で僕を包み込んでくれている女の人が、僕になにか囁いている。でも、僕もうダメみたい。誰かが石を投げたんだって誰かが言っている。そりゃないでしょ。僕は人がそんなことをしないと信じているから人の前にも姿を現したのに、そりゃないよ。
コマドリくんに恨みなんかないよ。だって彼になんの罪もないじゃないか。人間て、そんな生き物だったのかな。簡単に信頼した僕がバカだったのかな? 人の置いた餌を食べる僕たち鳥が単純で、バカなのかな? 
悲しいな、哀しいな。僕たち野鳥は、ただただ人間のための被写体に過ぎないのかな。僕たちは人間に愛されていたんじゃなかったのかな。

悲しいな、哀しいな、虚しいな……

ああ、寒い、とっても寒い。でも、女の人の手が暖かいのはよく分かる。ちゃんと僕を愛してくれる人もいるんだな。ありがとう。でももう僕は逝くよ。

さようなら……



梅雨に入り、雨模様の日が続きます。
けれどもこの季節が似合う、この季節が好きな花もありますね。
アジサイ(紫陽花) アジサイ(紫陽花) キンシバイ(錦糸梅)

小雨を厭わず、セッカの様子を見に行きます。
よく晴れた日に、広い空を懸命に飛びまわって縄張りを死守しようとするちっぽけなセッカの姿が好きですが、一方小雨に打たれながら、チガヤ原の一角でそっと佇む姿がとても印象的でした。
セッカ(雪加)雨中の図

晴れれば晴れたで、世界は再び輝きを取り戻します。
アオモンイトトンボ(青紋糸蜻蛉) ガマズミ コフキトンボ(粉吹蜻蛉)

言葉だけではどうしても力足らずで、目に訴えることのできる写真に依存しながらも、世界が、生き物がそこに生きている姿が本当にかけがえがなく、かつ美しさに溢れていることを、こうして文字にしたりカメラに収めるごとに、また今日も改めて認識させられるのです。

シロハラの魂は、いまどこを彷徨っているでしょう。人の手にかかって、しかし人の暖かな掌のなかで命の炎が潰えた彼の思いを想像するだに、人の行為の"光と影"を思わないわけにはいきません。
人はどうしてこうも不完全なのでしょう。人はなぜ自分本位なのでしょう。それを人の性(さが)と諦めてしまってよいものでしょうか。それならシロハラの魂は永遠に救われることなく、暗闇を彷徨うばかりではないでしょうか。

明日は梅雨の合間の晴れ間が広がるそうです。フィールドでは、明日もきっとこの上なく美しいトンボや花や鳥が迎えてくれ、私を魅了することでしょう。だから私はそれらに魅了されながらも、ココロの片隅で祈りましょう。シロハラの安寧なる眠りを祈りましょう。素直に人の愚を謝りましょう。この美しき自然の前で、いまここに立ち会えているシアワセを噛みしめましょう。一歩下がること、あらゆる生き物は対等であることを学びましょう。

さようなら、シロハラくん。

(了)