≪スタッフ・有志の連載≫
 <第25回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第25回 八月の詩
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年々歳々、日本列島の夏はどんどん熱帯性気候に近づいているのではあるまいか。梅雨明け以降、もはや温暖化などの言葉では説明しきれないほどの獰猛な暑熱が連日押し寄せ、ありとあらゆる事物を焦がしつくさんばかり
のその勢いに、衰える気配はまったくない。

元々夏は嫌いではなかったし、虫などは夏でなければ見られないことから、さして暑さを厭うことなく数年前までは積極的にフィールドに赴いた。けれども昨今、尋常ではないこの暑さは私の意欲と気力と積極性とを次々と奪い去り、命あっての物種、無理をしてまで外出することもないさと己に言って聞かせる、そんなひ弱な思いが私を支配するようになりつつあるのを禁じ得ないこの頃だ。

でも、幼いあの日、八月の炎天の下、私はどこへ向かおうとしていたのだったか…



就学前の耕三は、両親と歳の離れた二人の兄との五人暮らしである。住まいは町中の古いアパートだが、五分も歩けば田圃と雑木林が広がる、今でいう"里山"環境に出ることができた。兄たちに連れられ、この田圃や雑木林をいつも遊び場にしていた耕三だが、やがて一人でも来るようになった。】

時刻は午後二時を過ぎていた。
耕三はどこへ行こうという当てもなく田圃の畦道を歩いている。白っぽく輝く眩しい空からは八月上旬の暑熱が容赦なく降り注ぎ、耕三の頭から顔から体から絶え間なく汗が噴き出るが、もう諦めているのか気にならないのか、その汗を拭うこともなく、耕三はきっと前を見据えて歩みを止めない。
風はそよとも吹いていない。四十センチ程に伸びた稲の上を数羽の燕が飛び交う。歩みを進めるごとに夥しい数の小さな蛾やバッタが飛び出し、蛙も次々と田へ飛び込む。

かつて。
一b四方に数十匹はいるかと思われるほど高い密度で棲息する、まるで奇蹟のような生命たちの共生。喰い・喰われつつも同時にそれら生き物たちが存在できる豊かさ。強い農薬を使用するようなる以前の里や田には、そのような二次的な自然がどこにでも見られた。
耕三や兄たちにとり、それはごく当たり前の光景であった。兄たちが、それこそぼろぼろになるまで食い入るように見つめページを繰った「原色少年少女昆虫観察図鑑」に載っていた何百種類もの虫たちの大半は、身近な自然で見つけることができた。小さな耕三でさえも、例えば毒蛾とそれによく似た蛾を見分けることさえできた。
ツバメ(燕) チュウサギ(中鷺) ダイサギ(大鷺)


耕三には無理だったが、兄たちは甲虫類や蝶の標本まで作った。甲虫の場合は、虫が腐敗しないように防腐剤を注射してから細いピンで留める。普通、小学生が扱うことは決してない注射針を、兄たちが真剣な面持ちで甲虫に突き刺す様を、耕三は食い入るように見つめた。
耕三も兄たちも子ども特有の残酷さを持っていて、虫だのカエルだの蛇だのを遊び半分でずいぶん殺生したものだった。ザリガニ釣りに行くときは何も持たずに川へ行き、葦の葉を数枚繋いでそこらへんの棒きれに結んで竿がわりにし、蛙を捕まえ、腹の辺りを踏んづけて浮袋を潰し、さらに今思えばおぞましいことに、蛙の足の水かきの所から皮を全部剥いで、これを餌とした。これで巨大で真っ赤なザリガニがバケツ一杯釣れた。
けれども標本として甲虫に注射針を突き立てることには、耕三もまた厳粛な気持ちにならざるをえなかった。注射針を甘んじて受け、生きていた命が標本としてその存在の価値を転化してゆく彼に敬意を払う、子ども心にもそんな気持ちがあったのかも知れない。

その日、兄たちはどこかへ遊びに出かけ、耕三は一人だった。母は朝から忙しそうに家の中を立ち回り、耕三の相手をしてくれそうもなかった。仕方なく、夏のいつが分岐点だったのか、その主力がニイニイゼミからアブラゼミに変わっていった蝉の鳴き声にぼんやりと耳を傾けていた耕三だったが、ふと、何かの声が聞こえたような気がされ、導かれるようにすっくと立ち上がった。そして母には何も告げずに黙ってアパートを出たのだった。

田圃の周囲に点在する雑木林からはたくさんのアブラゼミの鳴き声が間断なく聞こえてくる。集落の境にある数本の桜の木では、まだニイニイゼミも鳴いている。時折りミンミンゼミの声も混じるが、数は少ない。
耕三は足元から飛び出す虫の種類に気をつけながら歩く。無数の小さな蛾やバッタや名も判らない虫たちが耕三の歩みに合わせて飛び出すが、耕三の好きなショウリョウバッタやツユムシ類などの比較的大型のバッタを期待しているのだ。ただ、もしそれらの虫を認めたとしても、今日の耕三はそれを捕まえようとは思っていない。
耕三は今日、何かに招かれるように、導かれるように歩いているからだ。それが何かは耕三にもまったく分からない。謂わば直感めいたものが、まるで天啓のように耕三の脳裏に届いたかのようだったのだ。だから普段と同じように足元の虫に注意をはらいはするものの、それが目的ではないことが今日の耕三には判っていた。

(本文と写真に特に関連はありません)
タカブシギ(鷹斑鷸) 同左 同左

やがて田圃が尽きたところで、耕三はセミの声がかまびすしい雑木林に足を踏み入れた。そして、この林では必ず立ち寄る、地層が剥き出しになっていてクヌギの根元が露わになっている場所へやってきた。ここでふと我に返ったように、耕三は自分が汗まみれであることに気づき、シャツの袖で額の汗を拭った。さすがに直射の当らない雑木林の中はいくらか暑さも和らぎ、耕三は少しほっとした気分になった。
そして急いでクヌギの根の辺りと幹の中断の樹液が出ているところへ視線を走らせる。もちろんクワガタやカブトムシがいないかを確かめるためだ。けれども日中ということもあり大きな甲虫類は見当たらず、カナブンとコクワガタ、それにスズメバチとキタテハ、ルリタテハなどが樹液に群がっている様が見られた。カナブンは好きなので採りたいのだけれど、スズメバチを刺激してはダメだと、日頃噛んで含めるように兄たちに言い聞かされていたので、自重した。

雑木林の小径を先に進む。コミスジが優雅に舞い、数多くのジャノメチョウ類が林の中を飛ぶ。少し開けた所ではクロアゲハが行き来し、足元ではオサムシ、ゴミムシの類が数多く蠢く。運が良ければタマムシやシロスジカミキリにも会える。
八月の雑木林は、まさに昆虫の宝庫なのだ。
ムナグロ(胸黒) コチドリ(小千鳥) コジュリン(小寿林)

さらに先に進む。いくつもある雑木林のなかで、この林はかなり深い方だ。耕三はこの林には何度も足を運んだが、どこまで続いているのかは知らない。今日は行けるところまで行ってみようと思っている。なぜなら"声"は林の奥から聞こえてくる、そんな確信が耕三にはあったから。

と、青い閃光が目の前を横切った。耕三は思わず立ち止まり、その影を追った。いったん林に消えたそれは、待つまでもなく再び耕三の前に素早く現れた。
「きみはだれ?」耕三は声を出さずに尋ねた。
そいつは返事をする代わりに耕三の前でひらりと翻って見せた。
「ああ、きみはアオスジアゲハ…」

そう、それは黒色の左右の翅の中央を鮮やかな青い稲妻が走る、だれもが一度見たら決して忘れられないだろうアゲハに一種だ。もちろん耕三もこのアゲハが大好きだ。
「ぼくを呼んだのはきみなの?」やはり声を出さずに耕三は聞いた。
彼は返事をすることなく、耕三の周りを旋回した。
暫く耕三はその姿を目で追っていたが、いつしか自分が自分でなくなっていることに気づいた。
もはや耕三は耕三ではなく、あたかも林の一部になりきっているかのようだ。耕三は耕三の形をしているけれど、林に同化し、溶けこんでいる。

いま耕三は限りなく自然で、譬えようもなく純粋で、世界一幸福な少年だ。耕三にもそのことが自覚できた。そして、できることならアオスジアゲハと繋がりたいと思った。野心も打算もなく、ただ繋がりたい、そう思った。
耕三は掌を上にして、そっと左手を差しのべた。
「おいで、さあここへおいで」
アオスジアゲハはさきほどよりはゆったりと舞いながらしだいに耕三に近づき、そして躊躇うことなく差し出された耕三の左手の中指の先にふんわりと着地した。
その瞬間、セミの声やハチの羽音や周囲のあらゆる音がかき消え、耕三とアオスジアゲハだけの世界が残った。

「どうしてぼくを呼んだの?」
「もちろんきみが友だちだからさ。きみはいつもぼくを見ていただろう? だからぼくらは友だちなんだよ」
「ふうん、ぼくが見ていたことを知ってたんだね。でもさ、ぼくは人間できみはチョウじゃないか。それでも友だちになれるの?」
「人間とチョウが友だちになったらおかしいかい? ぼくたちはこうして話をしているじゃないか。考えてごらん、人間もぼくらも同じ生き物じゃないか。元々は自然の中で誕生し、自然を利用しながら生きてきたんじゃないか。でも今の人間たちはその記憶をすっかり失くしちゃったんだ。そしたら人間は、動物や鳥やチョウの言葉を理解できなくなっちゃたんだね。ずっと昔、もう数え切れないほど昔、人間が自然の一部として生きていた頃は、ぼくらと話もしていたんだよ」
「ふうん、なんだか難しくてよく分からないけど、ぼくはきみの言葉が分かることは確かだね。あれ、でもどうして分かるんだろう?」
「うん、それはきみがまだ大人じゃないからさ。あ、でも子どもならみんな分かるというわけでもないんだ。より原始的な特性を備えた一部の子どもだけがぼくたちと繋がれるんだ」
「ゲンシテキ? それもよく分からないけれど、とにかくぼくたちは友だちなんだね」
「そうさ、友だちさ」

耕三とアオスジアゲハはそう話すと、暫く黙ってお互いを見つめた。
どのくらい時が流れたのか、いつしか陽が傾き始め、木々の影が長くなっている。
セッカ(雪下) 同左 オオセッカ(大雪下)

「さあ、きみはもうこの林からでなくちゃいけない。ぼくらはこうして友だちにはなれたけれど、きみはここの住人ではないからね」
「どうしてぼくはここにいられないの?」
「いまきみは(特別なサークル)の中にいるんだ。それでこうしてぼくと話もできるんだけれど、残念ながらきみのような子でもあまり長くサークルの中に留まってはいられないんだ」
「ふうん、そういうものなんだ。分かったよ、林を出ることにするよ。また来てもいいかな? またきみに会えるかな?」
「来るのはいつだってかまわない。でもいつもサークルに入れるわけではないんだ」
「どんなときならサークルに入れるの?」
「きみがね、今日のことを覚えている間は多分サークルは現れない。サークルは一切の予備知識がなく、まったくの無意識の内に現れる、そういうものなんだ」
「よく分からないけれど、またきみと話すのは難しいんだね」
「うん、でもぼくはいつでもきみのココロの中にいるよ。ずっといるよ。きみが大人になってもね。ただしきみのある部分が変わらなければ、だけどね」
「ふうん、でもそれならいいや、ずっとぼくの中にいてくれるんならね。ぼく、きっと変わらずにいるよ」
「ぼくもそれを願うよ」

ふと気づくと、耕三は林の入り口に一人で立っていた。アオスジアゲハはもう見えない。けれども耕三は気持ちの奥底で深く満ち足りていた。その思いに一切の比喩も修飾語も要らなかった。だから今日のこの出来事を、お母ちゃんにも大好きな二人の兄にも黙っていようと決めた。うまく説明できる自信もないし、それより何より、今日のことは自分だけの秘密にしておきたかった。耕三にとって、生まれて初めての秘密だった。いつか大人になってまだ今日のことを覚えていたら、そのときにまた考えてみることにしようと、そう思った。

アオスジアゲハ(青条揚羽)
雑木林を後にし、広い広い田圃の畦道を、来るときとは逆にたどって耕三は家路を急いだ。陽はさらに傾き、農家も屋敷林も雑木林も稲ですらも長い影をつくった。夕陽を背に、自分の影を踏みながら耕三は歩いた。気づけばあれほど狂ったように鳴いていたアブラゼミの声は途絶えがちになり、代わってカナカナカナと鳴くヒグラシの侘びしげな声音が林から届き、田圃を満たし、そして耕三の気持ちをも満たした。



少年の日の思いを今も忘れていない。けれども少年の日の無垢なる気持ちは保つべくもない。
保つべくもないのは百も承知で、しかし単なるノスタルジアではない何かを書き留めておきたかったのが今年の八月だった。

明日も、暑い。

(了)
(2010年にブログ上で発表した文を加筆・修正いたしました。ご了承ください。)