≪スタッフ・有志の連載≫
 <第27回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第27回 小春から枯野へ(常ならず…)
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12月も中旬を迎えます。
11月から今月の初旬にかけて、関東南部ではもうこれ以上は望めないほどの暖かで穏やかな晩秋が続きました。そして鴨も増え、さあこれから真冬に入る前の"初冬"という名の日々を少しの期間味わえるかなと思う間もなく、大陸から強力な寒気団がやって来て、日本海側に大雪を、関東へは乾いて冷たい北西風をもたらしてしまい、味わい深いはずの初冬は跡形もなく去ってしまいました。
年々歳々、いろんなものが変わってゆきます。夏が異常に暑く長く、その分押し出されるように秋が短く、すぐに冬になってしまうのがこの頃の気候の特徴です。四季折々という言い方があるように、日本の季節の移ろいの細やかさこそは私たち日本人の自然観・思いなどを形作ってきたのでしょうに、晩夏、初秋、晩秋、初冬などの微妙な季節の移ろいをうまく知覚できないまま、ただただ暑い・寒いだけの季節の繰り返しになってしまうことになるのなら、それはとても残念なことです。

それでも先に記したように11月は陽気に恵まれ、鳥の数や種類こそ少なかったものの、小春の日差しをいっぱいに浴びて、まだ健気に生きのびる虫の姿なども散見されました。これらの虫の姿に、ささやかながら"晩秋"の命の儚さをを見てとれたことに小さな歓びを見出せたのでした。


オオカマキリ ベニシジミ ナナホシテントウ


冬鳥が少ない中で、鴨や留鳥は大きく期待を裏切ることはないですね。

マガモ オナガガモ シジュウカラ

う〜ん、のっけから思いがけずカラフルなことになってしまいましたね。"晩秋"って、春の萌え出る命輝く美しさとは対照的な、枯れ滅びゆく直前にその生を燃やし尽くそうとする、謂わば命が終焉を迎える寸前に地団太を踏み踏み最後の力をもってその血潮を絞り出す、真に気迫に満ちた色合いが連なる、そんな景観を呈してくれるシーズンなのです。

けれども否応なくときは移ろい、やがて物みな急速に衰退し、色を失い、枯れ寂びてゆきます。まさか平家物語を引き合いに出すまでもありませんが、正に驕れるもの者久しからずなのでしょう。いえ、彼らが決して驕っているわけではなく、あるがまま、自然の摂理に則ってその生を生きているに過ぎないのですが、見る者(人間)からすれば、その変化は切なくて侘びしくて"無常"を思わないわけにはゆかないのです。誕生から滅びまで、あらゆる生は一刻の猶予も躊躇いもなく変容してゆくものなのです。そんなことはいまさら諭される謂れなどないほどに誰しもが分かっていることである筈なのに、けれども実際にその変容を目の当たりにすると、人はある種の感慨を抱かないわけにはいかなくなるのでしょう。
晩秋、例えばまだ美しかったベニシジミが、今ではかろうじてその生を保っている、その姿はやはり哀れを誘います。また葦原に足を運べば、秋、あれほど美しい花野であったその背景は潔いばかりの枯野です。


ベニシジミ ノスリ チュウヒ


そんな枯野ですが、もちろん冬でも様々な生き物を住まわせていることに変わりはなく、家から近いこともあり、足繁く通うことになります。写真としては背景の抜けた、それこそカレンダーに相応しいような背景は望むべくもないのですが、むしろこの季節のあるがままの環境に、そこに息づく鳥たちの自然に暮らす姿をあるがままにカメラに収めることができるという意味で、決してパラドックスでも皮肉でもなく極上の一品を手にすることができるのです。モデルはモズ嬢にお願いしました。


ところが…

ある日その葦原を囲む土手上で、小鳥でもいい猛禽でもいい、"極上"の登場を待っていると、土手下からジョウビタキの声が。そういえばさっきからジョウビの雌が右に左にと飛んでいたな。それにしてもまあ大きな声で元気のいいこと。おや、今度はベニマシコ。こちらもバカに声が大きいな。…

あっ、そういうことか。私はすぐにそれと気づかぬ自分に苦笑してしまいました。その声は、小鳥をおびき寄せるためのテープ(ICレコーダー?)からのものだったのです。
この件については私の拙ないブログに先頃記しましたので重複を避けたいと思いますが、私より後から来て、かつ私が待っている土手下まで降りてきたその「おびき寄せ氏」に対し、私は躊躇なく今すぐ再生を止めるようにと声をかけました。かの「おびき寄せ氏」は当初は何も言いませんでしたが、繰り返し私がお願いしていると、なぜか彼は切れてしまい、私の元につかつかとやってくると恐ろしげな形相で、この場所はいったい誰の場所なんだ?お前のか? と聞いてくるので、もちろんみんなの場所でしょうと答えると、それならオレが何をしようとオレの勝手だろう、だいたいテープの音を嫌ってるのは誰なんだ、あんたか? 勿論そうですよと言えば、イヤならお前がどっか行けばいいだろう、こんなに広いんだから、そうのたまうのです。

私は彼を怖いともなんとも思いませんでしたが、めいっぱい虚勢を張って私を睨みつける彼の表情を見て、これ以上何を言ってもムダだと悟ると、とりあえず口を噤むことにしました。まして、素敵なフィールドで不毛な言い合いを展開すること自体、フィールドへの冒涜にもなりかねないのですから。

オレがなにをしようと勝手? いまどき中学生だってこんな幼稚なことを言いはしないだろうな。なんて次元が低く、志も低いのだろう。通常私はそのような不毛な言い合いを避けたくて、そうした現場を見たらそそくさと立ち去るようにしているのですが、自分の大切なフィールドまで譲ってしまったら、もはや私の行くべきフィールドは皆無になってしまうという恐れを一方で抱いていて、言うべきときは言うと決めているのです。
決めてはいるのですが、いざそうした諍いを起こすと、気持ちは限りなく暗くなるばかりです。黒雲が空を厚く覆い、晴れることは決してありません。楽しいはずの鳥撮りやフィールド歩きに出かける気にもなれず、小春日和の過ごしよさそうな空を自宅の窓から見ているだけという日も多いのです。

ココロが晴れない原因は、ただトラブルがイヤなだけなのではなく、自然への接し方に関しての価値観・認識にあまりに隔たりがあり、その長さ深さに絶望するほかはないからです。いえ、価値観が違うのではなく、価値観などはなから無いのでしょう。価値観も志もない者に、自然のままになどと申し上げても、お前アホか、何わけ分からんこと言うとるの? と返されるのがせいぜいで、言い合いにすらならないでしょう。
それが証拠に、いったいテープ鳴らすのを誰がイヤがってるの? と聞き返されたのは、これが初めてではないのです。彼らの言い分はこちらとは真逆で、せっかくテープかけて鳥を呼んでるんだから、感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いなど毛ほどもないと、そういうことでしょう。

後日、ココロ晴れぬまま、それでも自分を励ますように外へ出かけました。行き先はとある農家の庭先になる柿の木。今季どこでも柿の実つきがとても悪くて好きなメジロを撮れていず、それでもこの農家の柿だけが例年と変わらぬほどに生っているので、いそいそと出かけたのです。
ところが、現地に着くと何やら大きなジョウビタキの声が。今度はすぐにテープだと分かりました。遠くからそっと見ると、どうやら同じ人物。しかも大音量で鳴らすものだからうるさいことこの上ない。農家もさぞ迷惑だろう。これまで誰もここでカメラを構えることなどなかったのに、ああ、もう二度とここへ来ることもなくなるだろう。そう思うと、情けないのと腹立たしいのと、またしても自分の大切なポイントを穢されてしまったとの思いが私の気持ちの隅々にまで行き渡り、もうどこか余所へ行く気力も失せて、ただただ項垂れて家路につくほかはありませんでした。

いまさら多くを語るまいと思っています。ありのままにとか自然にとか、啓蒙めいた言葉もきっと意味を成さないのでしょうから言いますまい。しかし聞く耳を持つかどうかに関わらず、私は言い切りたい。姑息な餌付けや、テープによるおびき寄せにより撮影した写真は、見る人が見ればほとんどそれと分かってしまうことと、そうした手法で撮られた写真の鳥の表情には、どこかに脅えや怒りが不自然なものが見てとれるということ。
さらにお前なんかに何と言われようと知ったこっちゃねえよと言われるのを承知で、そうした写真はなんの魅力も説得力も感動もないということを。

私は自分の撮る写真のレベルが高いなどとは思っていません。ただ、人に見せて恥じない写真だと思っています。不自然なこと、半自然なことだけはすまいと決めているからです。さきほど恥知らずにも"極上の"と書きましたが、それは写真のレベルを指しているのではなく、シャッターを切る際のピュアな心境、鳥や自然との一体感(いつも感じられるわけではないですが)などを意味しているのです。
そんな"極上な気分"に浸れること。いったい鳥撮り、自然撮りをしていてそれ以上の到達点があるでしょうか。それ以上のjoyを他に見出せるでしょうか。

誇り、そして志を持ってフィールドに臨めば、自然は鳥は、きっとそれに応えてくれるはずなのです。そうして撮影した写真は、少なくとも自分にとり"極上"となる、そう思うのです。

ベニマシコ ベニマシコ ハクセキレイ

明日も北風が強く、寒いそうです。時間があったら、冬枯れた田圃で逆光に羽ばたくスズメを撮りたいな。この頃はそんなのが私のささやかな夢になっています。スズメを納得のゆくまで撮れたら、今年の冬はただの枯野に終わらず、充実したものになるかも知れません。だってまさかスズメをおびき寄せようとする輩はいないでしょうから。

(了)