≪スタッフ・有志の連載≫
 <第28回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第28回 スズメを思う
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節分、そして立春を迎え、梅花をはじめそこかしこに春の"兆し"を見つけられるこの頃です。これからは、野草・園芸種を問わず、日に日に花の種類も数も増え、毎年のことなのに野に出かけるのがココロ浮き立つようです。

そうした早春を迎えるまでの冬の間、茫漠として荒涼とした農地を私は何度も彷徨いました。元々色味に乏しく、寒風吹き荒ぶ枯野の風景に妙に惹かれる私ですが、今季はそこへ一つ目的が加わりました。それはスズメです。



スズメ? いったい何故?

かつてあれほど身近な魚だったメダカが、1999年絶滅危惧種U類に分類されるに至ってしまった。小さい頃からどこの水辺でも普通にメダカを目にしてきた大人たちにとり、そのニュースは決して大げさでなく衝撃であった。
―え、まさか、あのメダカが?
確かに数十年前に比べれば環境はずいぶん変わった。さらさらゆくはずの「春の小川」はコンクリートで護岸され水草が育ちにくく、メダカが産卵できない。それどころか、農地や畑地がいつの間にか宅地や工場に変わってしまい、水辺環境そのものが減ってしまっていること。また、バスをはじめとした肉食外来魚が激増し、メダカをはじめとした在来種の稚魚を食してしまうという問題。さらに田圃への用水排水が分離されるようになって、メダカの出入りが難しくなってしまったことなどの要因が重なり、激減に至ったということであるらしい。

そんなことで、ここ数年水路を見かけると、メダカはいないかなと覗きこむことが知らぬ間に身についていた。
するとどうだろう、存外メダカはあちこちで見られるではないか。これはきっとこの事態を憂慮した各地の関係者、有志者が努力して、メダカ復活に尽力された嬉しい成果なのだろうと、勝手な想像を働かせていた。実際そのような活動をされている方も少なくはないそうである。
ところが夏のある日、チョウトンボ舞う農地に赴くと、一人の男性が護岸された水路(以前は自然なままの水路だった)を覗きこんでいるシーンに遭遇する。そして私の姿を認めたその男性は、こちらが何も問いかけたわけでもないのに、呟くようにこんなことを語った。
「メダカ、いるんだけどなあ…、でもこれみんな中国産だよなあ。日本のメダカは一つもいないよ」
「えっ、そうなんですか! これみんな外来種ですか!」
「そうだな。少なくなったメダカを増やそうとした誰かが放しちゃんたんだな、外国産を。おかげでニホンメダカはかえって少なくなっちゃたんだ」
「………」

後日調べてみると、ニホンメダカは大きくわけて東北地方日本海側を中心に在する北日本集団と、主に関東以南に在する南日本集団とがあって、それぞれ遺伝子が異なる。南日本集団ではさらに遺伝的に異なる9種のメダカが存在すると言われている。ところが近年、いるはずのない九州型のメダカが関東地方で発見されるなど、その住み分け境界線が急速に曖昧になり、かつ交雑も進んだ結果、遺伝的多様性がかえって失われつつあるというのが現状のようだ。つまりメダカ復元のために"メダカ池"やビオトープなどを設けるものの、その辺りの知識が十分でなかったために、そうした"遺失"が人為的な影響で進んでしまったという皮肉な結果を招いてしまった。
確かに、ある池で見つけたメダカをよく見たら、観賞用のヒメダカだったという経験が私にもあり、これは少々まずいんではないかと思った次第。

転じてスズメ。
ある調査によれば、スズメはここ20年ほどで半減しているという。
私見だが、スズメには野良スズメと街スズメがいる。このうち街スズメについては、瓦屋根の家がどんどん少なくなっているのにつれて、繁殖場所が確保できないなどの理由でその数を減らしていると言われる。野良スズメでは、やはり野良の環境の変化によるものが大きいのかも知れない。かつては万単位で群れていたと言われる野良スズメは、いまは千でも大きな群れと言えるだろう。
私の知る限り、7〜8年前ならば稲の刈り入れ時には近隣の農地でも大きな群れが飛び交い、農家を悩ませていたけれど、このところ目につく大きな群れが見当たらない。せいぜい多くて4〜500羽。私にはそれでも大きく立派な群れに見えるが、万単位というのを一度は見てみたいと思う。正に空を覆い尽くさんばかりの数なのだろうけれど、ちょっと想像の域を超える。


ずっと以前、私は本当に未熟で、きれいな鳥、珍しい鳥に憧れ、カメラに収めたいとそればかり考えていた。そんなある日、何気なくとある掲示板を眺めていて、衝撃的な1枚を目にした。それは数百羽のスズメが群れ飛ぶシーンを写したものだった。たかがスズメがこんなにも躍動的で生命力にあふれ、魅力的に映るなんてそれまで想像したこともなかったので、二重三重に私の感性やら考え方やら見る目などを揺さぶるのだった。
―どんな鳥を撮るかが第一義じゃないでしょ。珍しい鳥でも身近な鳥でもいい、それをどんな視点でどう撮るのか、それがポイントであって、それが見る人のココロを揺さぶるんじゃないかな。
同じ方向に一斉に群れ飛び躍動するその一葉の写真は、そう私に語りかけてくるのだった。
それはもちろんスズメが最良と言っているわけではなく、そのときどき、己の琴線をかき鳴らしてくる鳥というのが誰にもあって、その鳥はその人にとって少年(少女)時代の親友のように懐かしく、気が置けず、親愛の情に満たされる、そんな鳥にこだわってみたらどうかと、そう語りかけてくるのだった。

爾来、私は様々な鳥を見つつも、そのときどき私を捉えて離さない鳥にこだわってきた。
そしてこの冬、スズメが集う二カ所の農地に通い、スズメたちとときを過ごし、彼らの会話を耳にし、遠くから近くから、順光で斜光で、あるいは逆光で彼らの姿を何枚も何枚も、フィルムならぬセンサーに焼き付け続けた。
スズメは、これはずっと以前から感じていたことだが、写真のモデルとしてはとても難しい。例えばヒタキ類のように愛らしいというわけでもなく、もちろんカワセミのような華やかさにも欠ける。
けれども一羽でも群れていても、野におけるその存在感は確かなものがあり、それを表現するにはと様々に試行錯誤したのだった。




野良スズメは一見逞しく、溢れる生命力を感じずにはいられないけれど、実はその寿命は1年程度だという。卵から孵った雛が成鳥になる率も低いらしい。昨今では餌不足のせいもあって少子化も進んでいるらしい。
それでも春から初夏にかけて巣立った子をよく見かけるが、その愛くるしさはなんとも言えない。冬のスズメは、とりわけ寒風の中、群れなして懸命に生きのびようとする姿には感銘を受けないわけにはいかないが、やがて暖かくなり、子育てを始め、巣立った子スズメに遭遇すると、その表情に私は限りなく親しみを覚えてしまうのでもある。

  メダカよメダカ、今日一日を生きのびよ
命ある限り、懸命に生きのびよ
明日をも知れぬ命に絶望することなく
今日一日を生きのびよ

スズメよスズメ 今日一日を生きのびよ
命ある限り、懸命に生きのびよ

きみは知らぬだろうが
それは私の勝手な思い込みなのだが
きみは私の希望なのだ

だから だから
メダカよメダカ スズメよスズメ 
今日一日を生きのびよ

立春が過ぎ、野はおもむろに春を迎える準備を始めています。
おや、あんなところに白梅が。…


(了)