≪スタッフ・有志の連載≫
 <第29回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

──────────────
  第29回 春になったら
──────────────

ときは巡り、弥生三月を迎えています。
寒さに別れを告げる春の彼岸の頃は、野生種・栽培種を問わず様々な花が一斉に開き出し、色味に乏しかった野を山を、仄かに甘く優しげなパステルカラーで彩ります。大陸からもたらされた潔いほどに冷たかった清冽な空気は、南シナ海方面から流れてきた暖かな空気へといつしか入れ代わり、春霞みと呼ばれる曖昧な、けれどもその分ホッとするような柔かなその空気は、野を山を、ビルを人をそっと包み込み、ひと昔前の言い方をなぞれば、重たいコートを脱ぎすて、体の力が抜けた人々の気分を浮き立たせます。

春の花の先駆けと言えば、それは梅の花であると断言して憚らないのは、はたして私だけでしょうか。
桃花、桜花が咲き誇る爛漫の春。けれどもその前に厳しい冬を、そして陽の光が眩しくはなっているけれども、空気の冷たさは冬と変わらない"浅い春"を経なければ、春本番を幸福な思いで迎えることはできないのです。ある日突然暖かな春がやって来たとしても、その優しさも嬉しさも多くをもたらさないことでしょう。
人は相対でもの思う生き物。厳しさがあって優しさが沁みるように、春の歓びを心身ともに受け止めるには、それを待ちわびる長い冬がなければならないのです。

その浅い春。北風に首をすくめながら、負けずに咲きだした梅を見上げれば、その健気さに打たれないわけにはいきません。つつましく控えめで、無垢にして清新、他を顧みることなく一心に咲くその姿に、毎年毎年出会っているにも拘わらず、倦むことがありません。
さらに、ある年からそこに集う鳥=好きなメジロを合わせるようになって、私の楽しみはさらに深まっていったことは、本通信やブログ上でこれまで何度も記してきました。



季節の移ろいを、しかし毎年同じ事物で感知することは、懐かしくこそありすれ飽きることはないのですが、考えてみれば世界は広く、あるいは違った環境に足を運べば、また異なる感興を味わえるのではないかと考え、梅林以外の場所へも赴いてみることにします。

思うに私という奴は多分に偏狭で、こだわりが強いのだと書けばいくらかカッコもつきそうですが、なに、単に依怙地で偏執的で柔軟さに欠ける面白味のない奴、ということになります。依怙地で偏執的ですから、そのことに気づいてはいても、では今日から柔軟性とウイットに富んだ、見た目もカッコいい、面白おかしい奴になろうか、なりたい、なってみせる、とは全然思わないんですな、これが。困ったものです。

しかしながら世界の狭さ、閉塞感みたいなものはときを追うごとにいや増してくるのも事実で、ちょっとだけ窓を開けてみようか、世界の広さ・多様性を覗いてみようか、そんな気分が少しずつ支配的になってくるのです。
井の中の蛙は実は居心地が良くて、厳しくはあるけれど、しかし刺激的な世界が外側に深く広く拡がっていることさえ知らなければ、知っていても知らんぷりを決め込んで、まるで子宮の中のようにぬくぬくと暖かく世界一居心地の良い場所に安住している分には、なんの問題もなく不満もなくいられるのだけれど、ちょっとした隙を突いて忍び込んでくる漠とした不安=世界はこの井戸の中だけでは完結しないんじゃないか? という思いが気持ちを突きあげてくることを、ある時点からどうしても止められなくなる、そうした気持ちの変化を認めないわけにはいかなくなってくるのです。

鳥や自然に接する、そんな世界においても厭世的なできごとはあるもので、そんなことも引き金となってなるべく人を避けた鳥見・鳥撮になる傾向(一人ひとりは、ほぼ例外なく皆イイ人なのに)に陥ってからかなり久しい。

そこで初めの一歩。
今日もまた梅やメジロが甘く切なく誘ってくるのを振り払うように反対方向へ向かい、別の"春の兆し"を探しに行きます。今日はまだ風が冷たいけれど、よく晴れていて気持ちがいいです。ただこんな日は、少し遠い風景には陽炎が容赦なく上り立ち、写真的にはどうにもならない状況でしょう。まあでもいいんです。写真がすべてではないのですから。
現地に着くも、今年の傾向でやはり鳥は少ない。まだまだ色味の少ない茫漠とした世界が広がるのみ。時折りカモが旋回するものの、案の定空気の揺らぎ甚だしく、撮った写真は全滅です。まあこれは想定内なので、特にがっかりすることなく、ぼんやりと辺りを眺めます。

おや、チョウが。陽気に誘われて動き出した越冬チョウだな。キタテハ? テングチョウ?
ふと上空に気配。見上げると猛禽。ノスリがゆったりとホバリング。うん、花も色味もないけれど、このゆったり感は春っぽくないか? こじつけかな?
おや、水面にカンムリカイツブリ。スコープで覗くと、お、いくらか夏羽(繁殖羽)に換羽しているじゃないか。
カモが近づいてきたな。キンクロハジロ。なんだか立派な雄だな。色合いといい長い冠羽といい、もういつでもお父さんになれるな。



さて春は、自然の中だけに訪れるわけではありませんね。
私は時折り都心に出て、絵画展や写真展や映画を見たり、また街を当て所なく歩きます。都心にはもちろん多くの人が行き交いますが、それらの人と話す機会はほとんどなく、そうした意味では人の少ない自然の中以上に匿名性の高い空間に身を置いていることになります。

匿名性が高くはあっても、私はそこで一人ではありません。多くの多くの人の中の one of themなわけです。そこで私の感じる居心地の良さはなんなのでしょう。自然の中で放っておかれる居心地とはまったく異質の、けれども自分が one of themでいられることの安心感、ヒトという種の自分も一人なのだと確認できる、いまさらそんなことをと思わずに、改めてそこに身を置くことが許されるという安堵感なのでしょうか。
個々は個々の顔を持つのですが、街に集う、公園に集う、展覧会に集う人々は、personではなくあくまでpeopleなのです。特に規律・統制のとれた集団ではありません。もちろん信号は守るし入場料も払いますが、いわば「烏合(うごう)の衆」に他ならないのです。とかく良い意味では使われない烏合の衆ですが、統制のとれた、右向け右と言われれば何の疑いもなく右を向いてしまう集団・時代よりもよほど健全ではありませんか。それはさておき、そのpeopleの中に埋もれる心地良さはどうでしょう。
どんなに孤高を模(かたど)ったとしても、いつまでもカッコよくやっていけるはずもないんですね。(やっていきたいけどね)自然に癒される方は多いでしょうが、実は人込みにも癒されていることに人は気づいているでしょうか。いつも人込みに囲まれている方は気づきにくいかもしれませんが。



さて、本通信が皆様の手元に届くのは春の彼岸の真っ最中でしょうか。
さすがに梅はほぼ終わり(豊後(ぶんご)は盛りかも知れません)、早咲きの桜―河津桜や寒桜など―も咲きだしていることでしょう。墓参りも、花見も兼ねてという方も多いのでしょうね。

私? そうですね、窮屈な世界に留まっていずに、広い世界に少し足を踏み入れてみましょうかね。
平安、いやもっと遡って飛鳥の時代に当時の中国である隋へ見聞を広めるために、進んだ文化を学習し取り入れるために、それこそ決死の覚悟で海を渡った遣隋使、そして後の遣唐使のごとき覚悟で(大げさ?)、だいぶ、いや相当薹(とう)が立ちましたが、そんな初々しい気持ちで一歩踏み出してみましょうかね。

改めて世界の広さを知るために。

(了)