≪スタッフ・有志の連載≫
 <第32回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第32回 晩夏に思う
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8月も末を迎えています。 旧盆の前後は猛暑日が続き、その暴力的なまでの暑さの下では風情やら季節の感慨を味わう余裕もなく、エアコンの利いた部屋で淡々と仕事をこなす他はありませんでした。あまり汗もかかず、終日涼しい仕事部屋に閉じこもることは、実は想像以上にその心身に与える影響は大きく、室内に閉じ込められた草花の鉢植えのように、徐々に体も気持ちも萎えてゆくのが自覚できるのです。

これではいかんと、盆休みに暑さを逃れる意味も含めて、テントとキャンプグッズを適当に車に放り込んで、一人高地にある湿原を目指したのです。

鳥も虫も植物も、夏の前半ではその活性も高く、生き生きとその生を謳歌する種類も数も多いのですが、8月の中旬ともなれば、草や木々の緑も少しだけ疲労感を滲ませるようになり、鳥の繁殖はほぼ終わってその鳴き声も聞かれなくなり、セミの主力はアブラゼミ・ツクツクホウシへと代わり、人によく知られる花の種類もぐっと減って(決して有名とは言えない地味な花は結構咲いてはいるが)、野山が少し単調なトーンになってきます。 そんな折にあえて湿原を目指したのは、湿原を華やかに彩っていたであろうニッコウキスゲもコバイケイソウももう終えていて、訪れる人もそう多くはないだろうそこへ足を向けたのは、盛夏と、その次に来る季節との狭間に位置する「晩夏」を、盛夏よりはちょっと勢いを失くし、気持ち侘びしげな風景を、鳥や花を見てみたいと、そう思ったからです。

“旬”という言葉・概念があります。本来、季節季節に出回る食物の最適な時期を意味しますが、何かを見たり行ったりするのにちょうど良いとき、という解釈でもよく使われます。 それではあらゆる命にも“旬”というものがあるのでしょうか。 人の一生の場合、どこが旬かというのは、それは本人次第なのでしょう。いつまでも旬をキープする方もいれば、旬がいつだったか自覚できないままの方もいるでしょう。 一方、例えば植物であれば、これはもう間違いなく開花時期が旬でしょう。チョウやトンボなら羽化直後かな。 旬の持つ勢い、生々しいほどの生の力強さには、ときに圧倒されることもあるくらいです。それは激しく、リアルで、性急で、けれども限りなく美しくもあるのです。

さてでは、その“旬”が過ぎてしまったとき、眩しいほどに輝きを放っていたあの生き物たちに、もはや見るべきものはないのでしょうか。旬の時期を十二分に燃焼し尽くしたので、ただ静かに消えゆけばそれでいいのでしょうか。生き物の姿とは、興と廃、隆盛と衰弱、絶頂と退廃、そうした二律のみでしか捉えられないのでしょうか。
芽吹きの緑の淡い味わい、青葉若葉の清新、森も草原も被いつくす深い緑の力強さ、そして葉を散らして休眠に入る直前、最後の力を絞りきったような広葉樹の鮮烈な色づき。いずれも見る者をして、心動いてしまうことを禁じ得ないほどの植物たちの“力”には違いありません。
けれどもその間(あわい)、二十四節気でいうところの「処暑」のあたり、暦の上では暑さも衰える時季となっている、その実空気はまだ湿気でじっとりと重く、粘り付くような暑さが体にまとわりつく晩夏、ほとんどの人が見向きもしない、見るべきものもないと関心を払わない晩夏の木々や草の緑、あるいは繁殖を終えた鳥、数を減らした虫、まだいっぱい鳴いてはいるものの、足元に転がってしまっている姿も目立つ蝉、いっそ秋になってしまえばそれぞれがそれなりの落ち着きどころもあるであろうそれら生き物の、さてその今の姿は果たして本当にとるに足らない、つまらないだけの存在なのでしょうか。

湿原で出会えたのは、例えば子育てを終えたノビタキの姿でした。繁殖期のあの美しい羽毛の艶はすでになく、さりとて落ち着いた色調の冬羽への換羽も済んでいないノビタキは、同じく夏前半の勢いを失ったレンゲツツジの葉先に留まっているのでした。あるいは、背景の湿原がまだシックな秋色に染まりきれていず、そして立ち枯れぎみの草に留まり、どこか遠くを見つめるようなホオアカの姿でした。


この、謂わば諦観という概念をを具現化したような二葉の写真に、決して強くではないけれど、どこか惹かれてしまうことはないでしょうか。春の華やかな花の姿にも、秋の色鮮やかな紅葉にも、人を強く惹きつける強さがそこにはありますが、華やかさとは無縁の晩夏を背景にしたこれら鳥の姿に、少しだけ愁いを覚えたり、いくらか侘びしさを思ってしまうのはつまらないことでしょうか。

雨に降られ続けた、天候に恵まれない湿原への旅でしたが、帰りがけ、峠を越えて標高を少しずつ下げていった別荘地の一角で、高原ゆえに早く咲きだしたコスモスやノコンギクの可憐な姿が印象的だったとともに、季節の移り変わりを思わないわけにはいきませんでした。



さて平地の農地では、そろそろシギチの姿が見られるようになってきました。ムナグロ、アオアシシギ、タカブシギ、クサシギ、ヒバリシギ、オジロトウネン…。 数少ない休耕田を丹念に見て回り、これらのシギチに出会えるのは数少ない晩夏の楽しみでもあります。

タカブシギ コチドリ幼鳥 スズメ

同時に、田圃とその近辺の風景も晩夏に特有の色合いに変わりつつあります。稲は大きく成長し、早や一部では刈り入れも始まっています。盛夏では少なかったサギの姿も増え、この時季特有の農地の景観を呈してくれてい ます。
またエノコログサが増え、蓼の仲間、シロバナサクラタデなども咲き始めています。


夏の終わりの微妙な季節の推移を詠った歴史は古く、この駄文の大きなタイトルになっている「風の音にぞ…」の元歌になっている、あまりにも有名な和歌をあえて載せてみましょう。

 秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる (藤原敏行)


この歌を文字どおり解釈すれば、まだまだ暑い夏のように思えても、吹き来る風には秋の気配が…、となりますが、人生になぞらえてという解釈もあるようなのです。つまり、盛りの(旬の)夏(年齢)が過ぎて、いつの間にか秋(もう若くはない)が知らず知らずのうちに来ている、といった解釈です。 これはちょっとうがち過ぎた解釈だと思うのですが、いずれにしても夏の終わり=晩夏の生き物や景色の色合いの小さな移り変わりの中に、そっと吐いた溜息にも似た感慨が潜んでいることに思い至った今年の夏でした。

(了)