≪スタッフ・有志の連載≫
 <第35回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第35回 野鳥ということ
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春や秋が、段階を踏んで徐々にやって来るのに対し、冬は、その移行期間のようなものがなく、ある日吹き出した大陸からの乾いた北風に乗って急激にやってきます。師走、そして年の瀬を迎えて、北国では雪が降り募り、関東へも寒気団が押し寄せ、早朝の野面が霜に覆われる日々です。

冬は鳥が増えます。日本で冬を過ごす、いわゆる冬鳥の数も種類も多いからでしょう。ただし年により渡って来る鳥、あるいは国内を移動する鳥を含めてその飛来数は大きく変動します。昨年は極端と言ってよいくらいその数が少なくて、さて今年はどうかと言えば、種類は揃ってはいるものの、数は少ないというのが実感です。その理由は多分一つ二つではなく、こちら側の環境の変化、あるいは繁殖地側の環境の変化、食物となる木の実や草の種子のでき具合、渡りを行う時期の天候、渡りのルート上にある諸問題等、多岐にわたるものと思われます。
数が少ない傾向が何年も続くのであれば心配にもなりますが、一年単位の増減で一喜一憂する必要はあまりなくて、様子を見守ればよいのだと思われます。
もっともそれが数十年の単位でとなれば、その様相は大いに変わるようです。
かつて、東京湾が開発され、その多くを埋め立てられる以前、今の東京DL辺りには広大な干潟が広がり、多くのガンが観察されました。数百ものマガンの他に、シジュウカラガン・ハクガン・サカツラガンも見られたといいます。しかしながら先の東京オリンピックの年、即ち1964年辺りを境にほぼ完全に姿を消したのだそうです。その隣の、関係者の努力によって今も生き残った干潟=三番瀬には、現在でも時折りコクガンが姿を現すことはあるけれども。

冬鳥が少ないことはもちろん寂しいことなのですが、さりとて何も見るものはないのかと問われれば、決してそんことはないと思うのです。だってほら、スズメがいるじゃないですか。今年は少ないとはいえ、各種のカモもいるじゃないですか。これは比喩でもなんでもないのですよ。彼らをよく観察してごらんなさい。どうですか、スズメには見るべきものは何もありませんか。

スズメ

コガモやマガモ、ヨシガモの光を受けて輝く頭部の羽毛の輝きは言うまでもありませんが、翼の下に隠れた鮮やかなブルーの翼鏡を持つカルガモ(カルガモ?一年中どこででも見られる、あの地味なカルガモのこと?)でさえ、見るべき所があるのですよ。
オカヨシガモをご存知ですか。地味なグレー(雄)のカモだけれど、双眼鏡でじっくり見てみてください。その細かな格子状の模様は、まさにいぶし銀の美しさだとは言えないでしょうか。誤解を恐れずに敢えて私見を述べれば、オカヨシガモを見ずしてカモを語るなかれ、なんて考えているくらいです。神様はどんな鳥にも分け隔てなく、見るべき所をお与えになっているのですよ。

オカヨシガモ コガモ ヒドリガモ

市内郊外の公園に、今年もウソが来てくれました。アトリ・マヒワ・ウソといった冬の小鳥はまことに愛らしく、やはり一度はカメラに収めておきたいものです。昨年は冬鳥がまったく見られなかったこともあって、二年ぶりの邂逅を楽しみにいそいそと家を出たのでした。
この公園には鳥たちが好むアキニレの樹が沢山あります。他にヒサカキやらネズミモチやらヌルデなど、鳥がよく食する植物が豊富なので多くの鳥を引き寄せるのです。ウソもまたそれらの実をよく食べるので、この公園で見られることが多いのです。
到着後、池のカモなどを見ながら樹木が林立する公園の最奥部へと足を運びます。するとフイ、フイというウソ独特の優しい声が聞こえてきます。お〜、早速お出ましだ、とばかりに声のする方へ行ってみます。秋にキビタキが来るミズキがある林の辺りから声がします。
ところが…

林の前に小さく開けた空間があり、そこになんと20人近いカメラマンが馬蹄形に陣取っているではないですか。彼らの真ん前の林の縁辺りからウソの声が聞こえます。しかもまったく途切れることなくかなり大きな声で。
あ、そういうことか。
すぐに私は合点がゆきました。なんのことはない、声の主は“おびき寄せ”のためのテープ(レコーダー)だったのです。石の上には、これまたおびき寄せのためのヒエだかアワだかの餌がご丁寧に置かれているのでしょう。

(ああ、またこんな場面に遭遇してしまった)

そんな思いが脳裏を横切りましたが、実はもうこんなことは日常茶飯事ですので(つまらないことを…)と思うだけで、そそくさとその場を離れました。秋のキビタキのときもそんな風で、もっとたくさんのカメラマンが群がっていたらしいです。らしいというのは、そんな噂を聞いて足を運ばなかったからなのですが。残念だったのは顔見知りのカメラマンもいて、ちょっとだけ話をしたら、今季まだウソを撮っていないので、とにかく抑えておきたいので、みたいなことを言っていました。貴方も昨日今日始めたばかりの初心者というわけでもないんだから、少しは志を持ちなさいよ、という言葉をぐっと飲み込んで、何も言わずに立ち去ったのは言うまでもありません。

公園の池には先述のオカヨシガモがゆったりと泳いでいました。また周辺を歩いたら、ジョウビタキ・ツグミ・ホオジロ・シジュウカラ・メジロ・エナガなどの愛すべき小鳥たちがたくさんいました。
然るにそのカメラマンたちの関心はウソにのみ向けられ、他の鳥には一切関心を払わないのでしょう。シジュウカラやツグミなどには目もくれず、ましてスズメなんぞ眼中にないでしょう。オカヨシガモ? なんじゃ、そりゃ? といったところでしょうか。

いまさらね、説教めいたことも偉そうな啓蒙的な言葉を発するつもりもありません。積極的にそういう撮影手法をとる人たちには何を言っても始まらないでしょうし、もともと志が低い、というより志なんて持ち合わせていないのでしょうから、話がかみ合うわけもないのです。ただ一番問題なのは、最近カメラを始めた方が、そうした手法を見て、野鳥撮影ってこうやってやるものなんだと学習・追随してしまうことです。
あれ、これって不自然だし、撮影するためだけの手段に過ぎないよな、鳥自身のことを考えて、というのではないよな、なんだかちょっと後ろめたいかな…、といつか気づいてくれたらそれでよいのでしょうが、まったく疑うことなくその手法になじんでゆく、そんな「新人」がどんどん増えてしまいそうで、そんなことを考えるとなにやら暗澹とした気分になってしまうのです。

ココロ豊かな鳥撮りって、あると思うんです。

なにが豊かかは色々あるでしょうが、ベースにあるのは野鳥は自然の一部であることでしょう。その自然の中に入って、野鳥の自然の姿を撮影する、これがまずベースではないでしょうか。この段階で人為的に野鳥をおびき寄せてしまったら、もうすでに不自然であり、もっと言えば反自然ではないでしょうか。その瞬間、野鳥が野鳥でなくなってしまうのではないでしょうか。
また種類や色のきれいさや稀少性と言う色眼鏡で鳥を見る、分け隔てしてしまうからココロの自由度が奪われてしまうのじゃないでしょうか。もちろんいろんな鳥を撮ってよいのですが、どんな鳥にも見るべきところがあると思うのです。毎日カルガモを撮りましょうと言っているのではありません。ときにカルガモが、スズメがシジュウカラが、びっくりするくらい愛らしかったりきれいだったり生き生きしていたりする、そうしたことに気づく豊かな感受性(愛情と言い換えてもよいかもしれません)を養うことで、鳥撮りの幅がとても広がり、撮っている自分が豊かになってくるのです。

幸福の青い鳥は、メーテルリンクに教わらなくともやっぱり身近にいるのです。スズメは青くなくて茶色ですが、もしかしたら「幸福の青い鳥」そのものなのかも知れないのです。茶色を青に変えるのは、あなたのココロの自由度と豊かさ次第なのだと、そう思うんです。

クイナ ジョウビタキ カワウ

今年も残りわずか。人間界はいろんなことがありましたが、野鳥や野生の生き物たちには、来年もなんとかつつがなく生き延びて、その美しい横顔を見せてくれたらとっても嬉しいのだけれど。

(了)