≪スタッフ・有志の連載≫
 <第42回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第42回 シアワセって…
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地元のカメラマンの友人が「美しき湿原」と言って憚らない、かつては広い葦原だったフィールドが幾つかの理由によって相当量の水を貯め、多くの水鳥を浮かべる湿原に様変わりした。変わってしまったことによる鳥を見る上での功罪がそこにはあって、功の方は、カンムリカイツブリやハジロカイツブリ、ミコアイサをはじめとした多種のカモ、さらにオオハクチョウ・コハクチョウまで飛来するようになったことだろうか。もっともここ数年は水嵩が高過ぎて、主に真菰(マコモ)の茎や根を食すハクチョウの長い首でもそこに届かず、せっかく飛んできた彼らが居つかずに、それを目当てにやってきたウォッチャーや地元の方をがっかりさせている。一方で昨年は大量のボラが流入し、これを求めて数多くの、恐らくは数百羽にのぼるカワウが大挙して飛来し、連日のようにあの独特の集団漁の大スペクタクルを展開した。カワウのみならず、タヌキもイタチもそのボラを目当てに池の岸辺をうろつき、岸近くの水中では多くの雷魚がボラに襲いかかるシーンも見られた。ボラの数(多くは稚魚)は半端ではなく、時間帯により水面をポンポン跳ね上がる姿が見られた。カイツブリ系の鳥が増えたのも同じ理由だろうし、秋には野鳥カメラマンには人気のミサゴが飛んできて、目の前で狩りを見せてくれるのも嬉しいシーンだった。

一方罪の方だが、葦原は多くの草原性の野鳥を住まわせるが、ベニマシコだけはそこそこの数が見られるものの、オオジュリン・カシラダカ・アオジのような冬鳥や留鳥のセッカやカワラヒワなどが、湿原化したことで極端に減ってしまったことが最も大きな痛手だろうか。秋のノビタキも今季はほとんど見られなかった。周りの土手の草を刈ってしまう影響もあって、ギンイチモンジセセリやミヤマチャバネセセリなどのヨシやオギ・ススキなどに産卵するセセリチョウ科のチョウなどもほとんど見られなくなった。さらに寂しいのは、この葦原の象徴でもある猛禽類の飛来数も減ったことだ。チュウヒ・オオタカ・ハイタカ・チョウゲンボウ・ノスリ・ハヤブサ等の鷹類は今でも見られるが、その頻度が減った。つまりは水の多いこの環境を、彼らは以前ほどは好まなくなったのだろう。数年前までは、青空を舞台に異種の猛禽どうしの絡み合いなどもよく見られ、ウォッチャーやカメラマンを興奮させたものだったが、今はポツンと単独で現れ、カラスにモビングされては渋々立ち去って行くという体たらく。

美しき湿原 チュウヒ ユリカモメ

まあ、自然もまた時の流れとともに移り変わってゆくものではあるし、加えてここでは周辺住民の思惑も絡んで変えざるを得なかった面もあったのだ。けれども、都内でも北部にお住まいの方なら自転車でやって来られるほどの位置にありながら、年間を通じて13種もの猛禽が観察できるこの環境は、やはり相当に貴重であると言わねばならない。改めてそのことを自らの内に確認できたのが、この12月前半のことだった。




師走の街に、今年も山下達郎が流れる。

 まだ消え残るきみへの思い 叶えられそうもない
 街角にはクリスマス・ツリー 銀色のきらめき
 Silent night Holly night

12月の街はクリスマスカラーに華やかに彩られ、歩道を行き交う人々の気持ちも、きっと暖かいに違いない。

幸せはどこにある?
幸せって何?
街の様子を眺めていると、そんな陳腐な問いが脳裏をかすめる。
熟成した高度資本主義社会を象徴するかのように、今目の前のイルミネイションは目映いばかりに点滅する。それを見上げる人々の表情は一様に晴れやかで、そこに翳りはない。いえ、それぞれはそれぞれの問題を抱えているのだろうが、ともかく今はこの華やかさに実を委ねてしまおうという刹那的な思いが過るのに違いない。
人はときにそんな非日常的な華やかな空間に身を置くことで、ある種のカタルシスを感じ取るのかもしれない。面倒だったり辛かったり逃げ出したくなるような日常を暫し忘れ、気の置けない仲間や連れとともにそうした時間を共有することで、ひとときの幸せを享受しているのだろう。

花屋の店頭を飾るポインセチアの赤。クリスマスグッズを売る店頭の華やぎ。
 街は黄昏色に 姿を変えて 
 今夜も だれかを 誘いかけている…  (松山千春「街」より)

ただ、その華やかな同じ街のあちら側で、この国の現状を憂える人々がつきつめた、張り詰めたような表情で声を上げ、デモンストレイションする姿があることに、主義主張・心情の是非は問わず、目を逸らしてはいけないのではないか。シアワセの、目に見えぬあちら側に横たわる、不幸せをもたらすパワーが潜んでいるのかも知れないのではないか。そしてそこに、操作されてしまう幸せがあるのかも知れないのではないか。





再び湿原にて。
広い湿原で、例えばベニマシコがどこででも見られるわけではなく、やはりポイントというものがある。今季、そのポイント付近にかなりの数のカメラマンが集まる。ある日そのポイントを通りかかると、元気なベニマシコの鳴き声がする。その声を頼りに、カメラマンたちが右往左往する。あ〜あ、あんなに追いかけたら、出てくるものも出てこないのに、と思いつつ眺めていると、それでもベニマシコの声はやまず、実際かなり近くに雄も雌も頻繁に顔を出す。
あっ、やっぱりそうか。
見たことのある全身迷彩服のオジサンがいる。そういえば地元の自然公園でも舞台設定し、ずっとテープを流して鳥たちをおびき寄せ、キビタキもウソもアトリもいとも簡単に撮ってしまうカリスマおじさんがいるのだ。そこに群がるカメラマンの軍団。聞けば自然公園のキビタキには30人以上も群がっていたという。その中心に迷彩服オジサンがいるのだから、これはもうカリスマと呼ばずしてなんと呼ぼう。

かつてこの湿原で、やはり大音量でテープを流す別のオジサンに注意をして、ちょっとした口論になったことがあった。自然公園はもう諦めたが、10年以上前からこのフィールドを大切に歩いてきた自分として、この地を諦めるわけにはいかないとの思いが強かったのだろう。
思い入れの強い自然の片隅でとはいえ、鳥を撮るという目的だけのために不自然な、反自然な行為がまかり通ることに、なんの躊躇も違和感も、もちろん後ろめたさも志もなく当たり前のように行われる鳥をおびき寄せるという行為がまかり通ることに、まるでアレルギー性物質に触れたかのような不愉快な気分になり、そそくさとその場を後にした。もはや以前のように口論する気も失せて、逃げるようにその場を離れるしかない自分の後ろ姿は、さぞ惨めなものであったに違いない。


再び、シアワセって何だ? という問いが脳裏に浮かぶ。
ベニマシコの幸せ。ベニマシコが棲息する自然の幸せ。迷彩服オジサンの幸せ。己の幸せ。
理屈はこねまい。ただ、自分が去るしかないフィールドが哀しい。居場所をどんどん追われてゆくのが淋しい。迷彩服オジサンは一人ではなく、どこにでも出現し、しかも増殖している。もはや鳥撮りの常識は変わり、迷彩服オジサンがカリスマとなる時代なのだ。鳥の自然な姿を見たい・撮りたいなどというのは、もはや青臭い前時代の発想なのだろう。「勝ち組」などという言葉が普通に使われる時代。だからその反対にいる自分などは、正に「負け組」に他ならないのだ。

それでは明日から、自分はどこに身をおけばいいのだろう?

暖かだった今季の初冬もそろそろ終わり、本当の寒さがやってくる。その内湿原の周りの木々も枯れ、寒々とした風景が広がる。北風が吹き、空気は乾き、しかしそんな状況にまったく屈することなくオオタカが、チュウヒが、ハイタカが獲物を求めて飛び、大空を旋回する。そんな雄々しい猛禽に励まされるように、迷彩軍団とは一線を画して、やはりここへ足を運ぼうか。
そこに探し物やシアワセがあるかは定かではないけれど。

(了)

ベニマシコ カンムリカイツブリ ハイタカ