≪スタッフ・有志の連載≫
 <第44回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第44回 春風に吹かれながら
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春風が、街を野をやわらかく吹き抜け、陽の光は、そこにもここにも偏ることなくあまねく降り注がれ、華やぎと、えもいわれぬふんわりとした幸福感があたりに満ちてゆきます。
ただ春の天気は変わりやすく、二日晴れれば二日は曇ったり雨が降ったり。けれどもそれで気温が下がることはなく、慈雨とも呼ぶべき暖かな雨が穏やかに降り続きます。するとその雨を嬉々として受け入れ、体内に吸収した花や樹木は、ただ雨の水分だけでなく、春の精がもたらした“目覚めの歓喜”をも合わせて取り込み、それぞれがそれぞれの個性を生かした花を咲かせ、あるいは妖精に色があるとしたらきっとこの色に違いないと思われる浅緑色の芽吹きを、それも様々な樹木が惜しげもなく一斉に見せてくれるのです。

四季折々の自然の色・楽しみというものがありますが、萌え出る命、新たな命を育む春の力はやはりとてもスペシャルで、目で耳で肌でそれを確認できたときの清新な歓びは、他とは較べようもないほど明るく希望に満ちたものとなります。

アマナ イカリソウ サクラソウ

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日曜の朝は、特別なことがない限りNHKの「日曜美術館」を見ることが、ここ数十年の慣わしになっています。 番組で取り上げた画家がとても気に入り、かつ都内や近県の美術館で展覧会が開催されている場合は、番組が終わった、その足で美術館に直行することもあるくらいです。

現在小中学生は、基本的に9教科を学習します。かつての高校入試では、その9教科すべてが受験科目となっていた時代もあります。文系の科目が好きだった私は、数学などを苦手としていました。もっとも長じて子どもたちに学習を教える職業に就き、改めて数学と向き合ってみたらこれが案外に面白く、基本さえ身につければ難問に頭をひねるのも、これでなかなか楽しいものなのだということを発見したものでしたが。
数学よりももっと苦手な教科がありました。それは図工(美術)です。小学生の頃の工作では、切ってはいけない所を切ってしまったり、人とは作成手順が違ったりで、結局クラスでただ一人工作を完成させられずに、実に気まずく情けない思いをしたことは今でも忘れられません。
絵を描くのがまた下手で、写生にせよ静物にせよ、周りも本人も何が描いてあるか分からないほどに下手でした。まことに恥ずかしいことをカミングアウトしてしまえば、たった一度ですが中学の美術で「1」をとったこともあるくらいです。当時の学習評価は相対評価で「1」と「5」の生徒がクラスで3人程度いました。「5」をとるのも大変ですが、「1」もこれでなかなか貴重な数字なのです。

それではあなたはさぞ美術が嫌いだったでしょう、と思われることでしょうね。ところがそんなことはなく、美術作品や絵画を見ることは小さい頃からとても好きだったのです。絵を描く実力はずっと「1」のままでしたが、好きこそものの上手なれで、筆記試験ではけっこう点が取れて、それで「1」は1回で済んだ節があるのです。一度100点を取ったことがあり、その学期では、驚くなかれ美術で「5」をとったのです。これまでもこれからも、まことにさえない私の人生ではありますが、この「5」は手放しで喜んでよいたった一つの“快挙”“金字塔”には違いなかったのです。

で、愛読書ならぬ愛視聴番組である「日曜美術館」で、私は様々な画家と出会うことになります。聞いたこともないような画家でも、その作品に魅入られることもあるし、誰もが知る著名な画家の作品でも、ん? としか思えない作品もあります。
音楽や美術に関して、様々なジャンル分け・傾向・時代性・流行などがあると思うのですが、個人的にはそれらの“しばり”からできる限り自由でいよう、そうありたいと常に考えています。音楽や美術が、そうした分類のレッテルを貼られた途端、それらを聴く・見るにあたっての大きな支障となり、聴覚はにごり、目はかすんでしまうからです。
もちろん作品が創られた時代背景や画家の個人的な生きざまが作品に反映されますから、そうした知識はあってもよいのでしょうが、評論家やらが貼ったレッテルに左右されることなく、自分の耳・目で見聞きした独断と偏見でその作品の好き嫌いを判断したいのです。
ですから私が好む作品は、もちろん洋の東西を問わず、時代も関係なく、洋画か日本画か、油絵か水彩か版画かなどのジャンル分けとは一切関係のない所で選ばれるのです。例えて言うなら、昨今にわかファンが増えたフェルメールは40年以上も前から好みでしたが、尾形光琳に代表される琳派の絵も、私の中ではまったく同列に並んでいるのです。佐伯祐三のパリの絵はカッコいいですが、シャイム・スーティンの歪んだ風景や人物もココロに響くのです。パウル・クレーの暖色系の抽象画が好きですが、向井潤吉の端正で生真面目で郷愁を誘う古民家の絵は胸を打ちます。

学術的な意味でのジャンル分けにはもちろん意味はあります。鳥だって虫だって、そうしたジャンル分けがなければ整理がつきません。
でも一方、よい意味でミーハーな視点で作品を見たとき、そのジャンル分けは途端に意味を成さなくなります。鳥の写真展で、分類上珍しい鳥ばかり入選するわけではないことがそのことを物語っていますね。

メジロ&ソメイヨシノ コゲラ&ソメイヨシノ スズメ&ナノハナ

鳥の写真は、必ずしも美術品や芸術品とは限りません。生態を切り取る、カッコいい飛翔の様子を撮るなど、目的は様々です。

ただ生き物の場合、植物でもそうですが、命あるものが対象となります。そのことを忘れて、ないしは軽視して単なる被写体として捉えようとすると、そこには目に見えない大きな落とし穴が存在します。

…斜面に美しいキンランが咲いている。道路からは少し遠いので、斜面に踏み込んで撮影する。もちろん斜面には他の様々な草が自生しているけれど、キンランにのみ気をとられているカメラマンは、それらを無遠慮に踏みつけてしまう…。

例えばこのキンランやギンランなど、野草ファンには人気の花ですが、この花に近づきたいがために他の草を踏みつけてしまうといった、正に本末転倒の行為が、実は日常茶飯的になされてはいないでしょうか。
同様のことが野鳥撮影の現場でもよく目にします。地元の森に毎年フクロウが営巣するようになり、当初は何の規制もしなかったところ、チョウジソウやらアマナが自生する森の下草が徹底して踏み込まれてしまい、無残な姿を晒したのです。悲しいのは、下草を踏み荒らしてしまっていることにまったく気づかない、もしくは気づいてはいてもまったく気にしないカメラマンたちの徹底した鈍感さです。

鳥は鳥だけで、虫は虫だけで、花は花だけで独立して存在することはあり得なくて、森や草原や河原などそれぞれの棲息環境に応じて、けれども様々な命たちが密接に関係し合いながら共存していることはよく知られていることと思います。そうした環境に私たち人間がおじゃまするわけですが、好みやら関心の対象が人それぞれ違っているからといって、他の命を粗末にしてよいはずはありませんね。
私たちが命あるものを対象としてそこに近づこうとするとき、対象にのみ目を配るのではなく、その対象を含めた環境まるごとを、自然そのものを慈しむところから始めることが大切ではないでしょうか。
同時にその自然をよく知ったうえで、ないしは知ろうとした上でフィールドに赴く態度が大切でしょう。このことは、音楽や美術品の分類上の知識を知ることとは性質を異にします。

「被写体に愛を」なんてフレーズをどこかで聞いたことがあるような気がしますが、人物であれ風景であれ生き物であれ、写す側はその被写体に何がしか感慨なり感銘を覚えてレンズを向けるのでしょう。例えば棚田を写すとします。棚田そのものがとても絵になる被写体なので、ああ、いいなあと感じつつシャッターを押すだけでもよいのですが、この棚田はいつごろ開拓され、どこから水を引き、年間の米作りの日程を知り、農機具がどこまで使えるのか使えないのか、季節季節の日の出日の入り時間(平地とは違う)等々を頭に入れ、いつ頃の、どんな稲の状態の、どの方向から、どんな画角で、どういう光で撮影をするのかという意図を持ってシャッターを押した写真では、自ずと違ったものになるはずですね。というのも、そうした関心はより一層棚田への愛着を生み、思い込みも深くなり、そうした撮影者の思いは有形無形に作品に反映されるのではと思われるからです。
それは花でも虫でも鳥でも同じでしょう。ただバッタと思って撮るだけよりも、あ、ヤブキリの幼生が早くも現れた、今年は早いなあ、うわぁ、小さいなあ、おいおい逃げるなよ、なんて勝手な会話をしながら撮るバッタの表情がより愛しく見えるのは、単に私の思い込みでしょうか。

ヤブキリ 幼生 ツチイナゴ 越冬個体 テングチョウ 越冬個体

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季節は進み、満開の桜も本通信が皆様のお手元に届く頃には、ずいぶん散ってしまっていることでしょう。(北国では今が旬でしょうか)
それでもなお春の花々は咲き続き、短い花の命を謳歌するのでしょう。そんな恵まれた季節を私は呼吸し、目を見開き、耳をそばだて、衰えがちではありますが、この身の五感をフルに活用し、体いっぱいに受け止めたいと思うのです。
なぜって、それを受け止められることこそは、即ち私もまた生きている、生かされていることの証には違いないのですから。

ニリンソウ シロバナタンポポ マルバスミレ

(了)