≪スタッフ・有志の連載≫
 <第46回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第46回 梅雨どきのオムニバス
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(1)雨に…

梅雨空が日本列島を覆っています。
毎日のように空は暗い雲に覆われ、色味のさえない単調な風景が野にも街にも人の気分にも広がり、それでも私たちは日々の活動をやめるわけにもいかず、時おり恨めしげな視線を梅雨空に向けつつも、坦々と日常をこなします。
ただ、いつも鳥や花や虫などの身の回りの生き物たちの動静について注意深く目線を配っている、そのことが習い性になってしまっている人たちにとっては、少々この季節はつらいものがあるようです。もちろん雨には雨の、梅雨には梅雨なりの風情があることを十分解しているし、降り過ぎて災害をもたらすようなことがあっては元も子もありませんが、本来この季節の雨は、農業従事者にとっても、いろんな生き物にとっても大切なものであることも当たり前のこととして受け止めてはいるのです。
受け止めてはいるのですが、用事や通勤途中などで忙しげに移動中に目にするアジサイやアガパンサスの涼やかな色彩もきれいだなとは思えても、それを目的として外に出られないときの心持ちは、少々切ないものがあるようです。少しの焦燥感と、生き物たちへの焦がれと(しょっちゅう見てるのに、です)、そうした小さな欲求が適えられぬ小さな葛藤とがないまぜになって、そんな感情につながるようです。

で、少々濡れてもいいか、少々暗くてもいいか、ともかくも玄関の外へ出てしまおう、というささやかな決心をしたのは、夜来の雨が止み、この後はなんとか空も持ちそうだと思えるある日のことでした。ごく近所でいい、1時間くらいでいい、様子を見るだけでいい、そんな気持ちで短いレンズをつけたカメラ一つを肩に下げ、一応ビニール傘も携えて玄関のドアを開けたのでした。
家を出てすぐの所に、毎年トキワツユクサが花をつけているはずなのですが、やはりこの天気のせいか花はすべて閉じています。軽い失望感を味わいつつ、これは仕方のないことと歩を進めます。20分ほどで、緑と空が豊かに広がる野面に到着します。普段ですと市民の散歩道になっているのですが、さすがに雨上がりでは行き交う人の姿もまばらです。目をそこここに咲く花へと転じます。6月の前半ということでオトギリソウの仲間が目を引きます。雨の滴を湛えた花たちは、明るい陽の光の下で見るのとは異なる風情を見せてくれました。
オトギリソウ・弟切草 ビョウヤナギ・美央柳 キンシバイ・金糸梅

さらに歩を進めます。あらゆる花たちが雨の滴をその懐に抱えて、静かに佇んでいます。そんな花たちにそっとレンズを近づければ…

ムラサキツユクサ・紫式部 同 白花 ヤエドクダミ・八重毒痛み(溜み)

黄色や白の花は、強い陽光の下ではかえって撮影が難しいものですが、梅雨空の下では苦もなく、その優しげな素顔を見せてくれたのでした。思い切って出てきてよかったなと思いながら、ふと顔を上げると、なにやらクモまでが、私を歓迎してくれているのでした。
ヒメグモ?の仲間 ヒルガオ・昼顔


(2)待ちぼうけ…

陽も射さない暗い谷間で、夜明けから鳥を待ちます。たった一人で待ちます。でもすでに8時間が経過していますが、鳥は来ません。…

昔々、右も左も、酸いも甘いも、人の怖さも優しさもなんにも分かっていない、ただただ若さの上に胡坐をかいてトンガっていた頃、とてもとても好きな女の子がいて、でも様々な事情から毎日会うことがかなわず、でもその会えない日の、もがいてももがいてもどうにもならない身が焦げ付くような恋情に抗し切れず、今で言えばストーカーのように彼女が通るであろう道で彼女を待ち続けたことを思い出しました。今のように携帯電話もなければ、メールもラインもない時代。さりとて家の電話ににかけて彼女を呼び出してもらうこともできず(多分に彼女の両親から嫌われていたらしいことで。今思えば無理からぬことですが)朝から夕方まで待ちましたが、ついに彼女はその道に現れることはなく、絶望と悲しみにうちひしがれた哀れな青年の体よろしく、肩を落とし、俯きながら駅までの道のりをのろのろと歩んだことを、なぜかこのときありありと思い出したのです。

本当に若さとは、ただただ思い込み以外の何ものでもなく、さらにいつも自分の気持ちしか見ていず見えていず、人の思いも常識も分からず、傲慢で鼻持ちならないなんともイヤなものだと、己の若い時代を振り返ってそう思わざるを得ません。若さは、それだけで貴重だとか美しいなどと言うけれど、そんなヤツもいないことはないのだろうけれど、少なくとも自分にはそんな概念はまったく当てはまりそうにありません。今思い返すだけでも、背中のあたりに冷たい汗が流れるようです。無知であることは仕方がないにしても、恥知らずで苦労知らずで、その分優しくなれない自分の愚かさに気づけない日々。悔いと、顔から火が出るような羞恥の念が今の私のココロに翳を差します。
(でもなあ、彼女を思う気持ちはホンモノだったよなあ。純粋といえば聞こえはいいけれど、なに、ただ狂信的なだけだったんだろうが、それでも唯一その思いだけは認めてあげていいんじゃないか? 若い時代を全否定しても構わないし、実際自分はとことんろくでもない野郎だったけれど、一人の女の子を思う気持ちくらいは認めてあげようか…)

でも、結局彼女が来なかったように、鳥は来ません。

釣りの世界ではこういうのを「ボウズ」とか「おでこ」とか言うけれど、なんだか自分の人生の大半は「ボウズ」だったんじゃないかと、あの若い日の傲慢な自分をただただ恥じ続けているうちに、自分の生の大半は過ぎてゆくんじゃないかというペシミスティックな感情に覆われてゆきます。

ふと思い立って、谷筋を歩いてみます。
と、やはりいました。こうした沢伝いに見られるトンボが。トンボの名はミヤマカワトンボ。珍しくもなんともないけれど、平地にはいないトンボなので、レンズを向けます。アサヒナカワトンボらしいものもいます。
ミヤマカワトンボ アサヒナカワトンボ ツノアオカメムシ


鳥は来ません。
無聊のさなか、つい襲われた負の感情から救われることはないにせよ、いっとき虫たちがそれを忘れさせてくれたことには、若い頃にはなかった感謝の念を持てたことがよかったといえばよかったのでした。

鳥は来ません。夕方、私は静かに谷間を後にしました。


(3)希望…

今季、世間にとってはなんということもない、けれども私にとっては大切な鳥であるセッカをうまく撮影できずに悩んでいました。人に話せばただ笑われるだけの出来事に違いないのですが、私にとっては一大事。さてどうしたものかと、4月からここまでずっと悩みつつも、その解決策の糸口すら見つからず、手をこまねいているうちに徒に時間ばかりが過ぎていったのです。

鳥撮りは、ときに気の合う仲間と同行することもありますが、基本的に単独行が多い私です。
私にとり、大切な小鳥が三種類います。メジロは最も愛すべき鳥です。秋の里のノビタキは、最も気持ちが穏やかになれて、気持ちにフィットしてくる鳥です。セッカは、私が孤独と向き合うときにそこにいて欲しい鳥です。そのセッカがうまく撮れない焦燥感は、相当なものなのです。セッカという鳥は、私にとっては対話する鳥なのです。夏の暑い盛りに、一人汗をかきながらセッカと対話する時間は、つまりは己と向き合う時間なのです。己と向き合うのは、深夜にウィスキーを傾けながらでもいいでしょうし、ランニングしながらというのもありでしょうし、そこいらを歩きながらというのも悪くありません。でも、少なくとも暑い間は、私はセッカを必要としているようなのです。その時間が必要なのです。いつからかそうなったのです。ほとんど哲学的な物言いをしているようですが、これは比喩でもなんでもなくて、実際にセッカのいる農地でセッカを前にして、セッカにレンズを向けながらセッカと、そして己と対話しているのです。傍から見れば意味不明な行動に違いなく、あまり近づかない方がいいような気持ち悪さでしょうが、なにこちらはいっこうにかまいません。第一、夏の農地に人はほとんどいませんから。

今季不調だったセッカ撮りが、6月入り漸く少し上向いてきました。不思議なことですが、セッカや己との対話と書きましたが、すべてレンズを通じてということなのです。なぜそうなのかは自分でも分からないのです。まるでレンズに対話の精霊が潜んでいるかのように、レンズ越しであることが一つの、しかし最大の条件になるのです。
繰り返しになりますが、これは形而上の、ないしは哲学を語る上での設定の話をしているのではなく、現実に農地でセッカを撮るという行為から生じている話なのです。
ですから撮れなかったセッカが撮れるようになったことは、私にはとっても重要なことであり、ある種の希望でもあるのです。
セッカ セッカ

ふと気づけば、すでに“夏至”が過ぎており、早や今年の半分が過去へと去ったことを知ると、時の流れの速さにしばし茫然となってしまいました。
あと二十日あまり、梅雨が去れば猛暑日が続くであろう暑い暑い真夏がやってきます。アホのように暑い真夏ならば、案外ノーテンキな自分でいられるような気もして、それはそれで歓迎してもいいんじゃないかと、そんな風にも思えるこの頃です。

(了)