≪スタッフ・有志の連載≫
 <第47回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第47回 猫に石を投げる
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昨年の夏に飼い犬を亡くしたことは、本通信にも書かせていただきました。
実は家には猫もいて、18歳という高齢ながらなんとかこの暑さにも負けずに頑張って生きています。ただ時折り足元がふらつくこともあり、日々の薬が欠かせません。犬がいたころはあまり居間にも顔を出すことはなかったのですが、犬が死んでしまって暫くすると、こちらにも顔を出すようになりました。そればかりか、気難しい猫ゆえそれまで人に甘えることのなかった彼女がしきりと甘え、こちらの傍を離れないようになったのです。歳のせいなのか、それとも今まで我慢していたのか、そう思えばなにやらこの子への愛しさも募り、一緒に過ごす時間が多いこの頃です。

猫を飼う前は、猫という動物にはほとんど興味がなかったのですが、捨てられた? ないしは親にはぐれて公園の木の上から降りられなくなっていた子猫を次男が拾ってきた、そのときから18年以上の月日が流れたことになります。
空前の「猫ブーム」ゆえ、いまさら猫の魅力について語ることはしませんが、古代より人の営みにつかず離れずに暮らしてきた猫のことです。ほとんどの人が猫を可愛がるとまではゆかなくとも、その存在を煙たく思う、敵視するようなことはあまり考えにくいとこれまで思っていました。
けれどもその猫をめぐり、人間のエゴとは実に測り知れないほど深く、おぞましいものなのだということを改めて知ることになったのは、ついこの間のことでした。

3年と少し前、関西のとあるバードバスにおいて、春の立ち寄りコマドリを皆で撮影していた折に、シロハラという冬鳥が出てきた。シロハラがバードバスにいるとコマドリが出てきにくいと考えたあるカメラマンが、あろうことか石を投げつけ、そのシロハラを殺してしまったという事件が起きました。
この件について、私は私の拙ブログ上で思うところを述べ、また2013年の6月の本通信(第23回「風の音にぞ…」)でも触れさせていただきました。
あれから3年以上の月日を経たある日、拙ブログに一つのコメントが寄せられたのです。それを要約します。

ある日、このバードバスを通りかかったら、カメラマンたちが騒いでいる。何かと見てみたら、猫がバードバスの鳥を狙っている。カメラマンの一人が、シロハラのときとまったく同じように石を投げつけると、頭部に命中。 「ゴツンとおとしたで。頭やで」と皆で爆笑。(コメントいただいた方が)注意すればよかったが、ご存知の通り柄の悪い連中で勇気が出なかった。

シロハラ以降、私は人が多く集まるフィールドからは足が遠くなってしまったので、こうした事例が引き続き散見されているかは知る由もなかったし、遠ざけてもいたのでしたが、こうして実際に同様のことが起こってしまう、しかも同じ場所で起こってしまうという事実を前に、深く落胆してしまうことを禁じえません。

シロハラだけに飽き足らず、猫にまで石を投げるという愚行を繰り返すカメラマン。野鳥の写真を撮るためならば、躊躇うことなく邪魔なものはすべて排除しようとする、その行為に何らの疑いを持たないカメラマン。野鳥の写真を撮るためならば、他の生き物の命でさえ虫けらか何かのように踏みにじるカメラマン。いえ、虫けらだって命ですから、安易に踏みつけてよいということはないはずです。

8月も終盤ともなれば、夜には虫のすだきも聞こえてきます。エンマコオロギ・ミツカドコオロギ・ツヅレサセコオロギ…、住宅街でも虫の音はそちこちから高く低く届き、私たちに季節の移り変わりをしみじみと伝えてくれるのです。たかが虫けら。でもその虫けらの音色に私たちはずいぶん癒されてもいるのです。であればこそ、古来人は虫の音を愛で、そのあわれを詠い残してきたのではないでしょうか。

目の前に白紙を置きて虫を聴く (泉田秋硯)

一寸の虫でさえも私たちにとりその存在は欠かせないのです。それは決してメタファー(隠喩)などではなく、実際そこにいるちゃんとした命として大切な存在なのです。虫だけではなく、鳥も犬も猫も有形無形に、意識するとしないとに関わらず、生きてそこにあることに大きな意味があるのだと思われます。そう、あらゆる命の重さに違いはないし、無駄もないのです。
さてではこうした認識を持つことは、とても難しいことでしょうか?
鳥撮りが生き甲斐で、それ以外の事物に一切目がいかないカメラマンにとっては、理解しがたいことなのでしょうか?

そしてまた、あらゆる命は限りなく美しく尊いものです。
今夏、様々な事情からフィールドに出る機会が少ないのですが、それでもちょっと近所を回ってみるだけでも、美しい命が私を迎えてくれるのです。特に珍しくなくてもいい、その生きる姿にココロ惹かれてしまうのは、決して私一人ではないはずです。
ユウガギクとクロウリハムシ アオイトトンボ ミヤコグサとベニシジミ

元々人間という生き物は矛盾に満ち満ちたものであることは、残念ながら認めないわけにはいきません。人類史上、これまで戦争が絶えた日は一日とてない一方で、鳥や花や弱者に対してそっと手を差し伸べる優しさを合わせ持つのも人間という生き物です。
けれども人間には学習能力があり、同じ過ちを繰り返さない、昨日よりは今日、今日よりは明日、より良い方向へ進もうとするのも人間です。ただし、本来持っているはずの学習能力を放棄し、己の行動を決定する基準がいつでも己のエゴのみであるという、正に“愚の骨頂”のような人間が、少数ながら(と信じたい)存在することも残念ながら事実です。
話を振り出しに戻せば、シロハラに石を投げて殺してしまった人物と、今回猫に石を投げた人物が同一であるかは知る由もありませんが、同じ現場で起きていることから、少なくともかつての「シロハラ事件」を知らない人物が今回の「動物虐待犯人」であるとは考えにくいのです。
であるならば、今回の動物虐待者こそはまれにみるエゴイストであり、野鳥カメラマンの風上にも置けぬ不逞の輩であると言わねばなりません。正に恥ずべき、そして唾棄すべき人間でありましょう。
私はこんな風に人を罵倒する趣味は基本的に持ち合わせていない積もりです。けれども、同じ過ちを繰り返す、どころかそれを過ちとすら認識しない、できない人間に対しては猛烈に腹が立ちます。今すぐ現場に飛んで行って、モノも言わずに殴りつけたい気分です。
そしてこんな風に理性も何も吹っ飛んでしまうような人間の存在と、それに怒りをぶつける自分と、石を当てられたシロハラや猫が悲しくてやり切れません。さらに追い打ちをかけるように、こんな人物に何を言ったところでなんの効果もないのだろうと思えば、底知れぬ無力感に打ちひしがれてしまうのです。

人の根底にあるエゴや残虐性は、無論私の内にもあることを認めます。けれどもそれを認めた上で、私はできる限り自分を律したいと考えます。こんな風に書くと、わたしはさも人格者のように誤解されてしまいそうですが、ダメな人間であるからこそ、あらゆる欲望から逃げられない弱い人間であるからこそ、私は私を律しなければならないのです。そうでなければ自然は美しいだの、あらゆる命は平等で尊いなどという歯の浮くような台詞をはく資格がなくなってしまうからです。そこを剥奪されてしまうと、私が私としてよって立つ礎がぐらぐらになり、私の存在はまったく意味をなさなくなってしまうのです。偉そうなことを言っても、私は怖いのです。とても弱いのです。もしかしたら「動物虐待者」と私とは五十歩百歩の違いしかないのかも知れないと気づいたりもするのです。
でも、それでも五十歩と百歩とでは違う、その違いをいつも意識していようと思います。ぐらぐらでもいい、不完全でもいい、私がよって立つ礎だけは死ぬまで踏みしめていようと、そう思うのです。


夏空に真っ白な雲が浮かび、その下をいつしか山からおりてきた多くのアキアカネが舞います。いつの間にか、もう晩夏なんですね。まだまだ暑いのに、北の地で繁殖を終えたシギやチドリが休耕田や干潟に姿を現し始めてもいます。季節ごとのそうした生き物たちの姿の変化を察知することの喜びは、何にも代えがたく貴重なものだと感じています。そしてどの季節も美しく愛おしく、まるで宝物です。
いつも自然に目を向ける者にとり、この宝物こそは決してお金なんかでは買えない貴重にして唯一無二の財産なのです。生き甲斐なのです。そんな風に思うとき、少々おめでたい口調になってしまいますが、なべて生きとし生けるものに幸あれと願わずにはいられません。

ゴイシシジミ ミヤマアカネ アオバネサルハムシ

(了)