≪スタッフ・有志の連載≫
 <第50回> 風の音にぞ…
 ============ by 漂鳥

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  第50回 嘆きの権兵衛
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皆の衆、ご無沙汰であった、鴨ケ井伊 権兵衛じゃ。

わしはよう知らなんだったが、日本全国の権兵衛に関心を持つ御仁から、権兵衛ははどうした権兵衛はどうしているとの言が急増しているそうでの。旧友である漂鳥殿からも、権兵衛殿、また表舞台に立ってくだされとの矢の催促があっての。わしはほれ、決して目立ちたがり屋ではないのでな。わしを嫌いでないという御仁が幾ばくかいるにしても、じゃからといって調子に乗ってホイホイと表立つのは趣味ではない。
我が鴨ケ井伊家は、遡れば平安期にはすでにその名が物の書に見られるのじゃが、その後貴族から武士の時代に移行してからはの、歴代の将軍家の鷹狩の御指南番という名誉ある地位を数百年の長きに渡って連綿と勤めてきた家系であるのじゃが、所詮は表からではなく陰からお支えする御役目でござれば、表立って世間に名を売るような行為は厳に慎むべしと、これも数百年に渡って変わらぬ鴨ケ井伊家の家訓でもあるので、尚更のことなのじゃ。

そのように鴨ケ井伊家はの、徳川の時代が終わるまでずっと将軍家に仕えて参ったのじゃが、ただ単に「御恩と奉公」という、頼朝公および北条氏の時代に確立された武家社会の主従関係の基本構造に忠実に従っていたばかりではなく、歴代の当主の、例外なく皆が皆、無類の鴨好き・水鳥好きであったのあればこそ、その御勤めを“我が喜び”としてわが胸の内にて密かに、しかし深く感じ入っていたことこそは、破綻なくお仕え続けることができた所以であるのだよ。そうでなくてどうして数百年の長きに渡って、裏側からとはいえ将軍家の伝統ある「鷹狩」および「鴨場の管理」という仕事を全うできようぞ。
このあたりの詳しいことは、重複を避ける意味でも、2010年11月と随分古い記事になるが、下記「鴨撮り権兵衛」を参照されるとよいと思う。思い切り手前味噌になるが、この頃のCanonのコンデジ、S95を使用したデジスコ画像は我ながらなかなかのものでござると自負しておるのじゃ。
この頃はデジスコのカメラにミラーレス一眼を取り付けてというのが普通になっておるが、実はデジスコ用のカメラは、この頃のコンデジが最も相性が良いとわしは踏んでおる。センサーサイズがまったくもって小さいコンデジは、センサーの大きいデジイチに対して大きなコンプレックスを持っていたのじゃ。
だがの、ひとたびデジスコとして使用したときのその画質はの、いま見てもデジイチや現在のミラーレス一眼の画と較べてまったく遜色ないものがあると思うのじゃが、本記事の読者諸氏はどう見るかのう。
ちなみにこの頃、画像処理なるものはほとんどしておらず(今でもほとんどやらぬが)、シャープネスを少々かけておるだけなのじゃ。
  「鴨撮り権兵衛」⇒ http://blog.livedoor.jp/hyoutyou/archives/65425937.html

話が逸れてしまってすまぬ。
漂鳥殿も相当に水鳥好きとわしは認識しておるのじゃが、今季はあまり水鳥が登場せぬゆえ、代わりにというのでもないが、鴨や水鳥のスペシャリストを自認するわしの画像を見てもらおうかの。
わしの鴨撮りフィールドは、こんな川なのじゃ。護岸もされておらず自然な状態を保っている。今の時代であれば実に貴重な川だと言えまいかの。
大きな池や湖ならば、もっと多くの鴨が集っているのじゃろうが、いかにも鳥が遠い。その点、この川に精通しているわしゆえ、鳥たちとも謂わば“顔馴染み”であることも手伝って、かなりの近さで見たり撮ったりができるのじゃ。
なに、その極意はだと? 
そんなものありゃせん。フィールドに精通し、鳥の習性を知り、無論鳥を脅したりせず、愛情をもって接していれば、自ずと鳥たちの警戒心が解けるのじゃよ。
「あやつはよく来る輩じゃのう。ま、しかし、特に悪さをするのでなし、まあほっとけばよいじゃろ」
なんて鳥たちに思わせてしまえばよいのじゃ。今風にいえば、鳥たちとコミュニケイションをとることかのう。
鴨のいる風景 ヨシガモ・雄 オカヨシガモ・雄

しかるにこの川筋を歩いていると、複数ヶ所でカワセミを撮っている御仁がこれまた複数おっての。カワセミを撮るのはもちろん自由じゃが、留まり棒を立てての、まあそのくらいは目をつむるにしても、絶対にいかんのは、プラスチック容器のいけすに小魚を入れて、そこに飛び込むカワセミを撮ろうとすることじゃ。ま、これもまた“餌付け”じゃな。この手法は、ずっと昔からやられていて絶えることがない。
ところがの、目測を誤ったカワセミが、いけすに飛び込んだ際にそのプラスチック容器に嘴をぶつけて折ってしまうことがままあるんじゃ。これは勿論まずい。嘴を欠いたカワセミは、以後魚が獲れんようになってしまうかもしれんじゃろ。そうなったらどうなるか。無論カワセミは死を待つしかない。最も許せんのは、そういう事例を知りつつ、なおその手法を続ける輩がいることじゃ。

公園の池のカワセミと違って、こういう自然な状態が保たれている所のカワセミは非常に警戒心が強くての。対岸にこちらが姿を見せただけで飛んで行ってしまうのじゃ。じゃからにしてカワセミの撮影はなかなか難易度が高い。ところがの、カワセミもまた餌には弱いんじゃのう。徐々に餌付いてしまうんじゃ。
しかしのう、カワセミへの近づき方、距離感を体得してしまえば、撮影はけっして難しいものではないのじゃ。わしは上の鴨を撮った同じ日に、2時間ほどで5個体のカワセミを見たぞ。この川は多いんじゃ、カワセミが。その内の3羽がこれじゃ。留まり棒なんかじゃなく、自然なカワセミはやはり美しいものじゃ。それはカワセミ自身の美しさだけでなく、決して絵葉書のように見栄えはせずとも、自然な状態での生態そのものが美しいのじゃ。

それにしても鳥はみんな餌付けに弱い。ルリビタキもオジロビタキもコマドリもオオマシコも、人気の鳥はすべてカメラマンに餌付けられてしまう時代じゃ。餌付けが鳥の健康被害を引き起こすかもしれんなどという知識は、ほとんどの御仁が持ち合わせていないのであろう。勉強不足よのう。もっと性質が悪いのは、その知識があってもなお餌付けを続けることじゃ。このあたり、カワセミと同じじゃのう。
そういえば漂鳥殿がこの間申しておった。よせばいいのに人気の都市公園に行ったら、実に盛大にルリビタキ用の舞台が設定されておるのじゃと。こう苔むした古木を巧みに積み上げての、さらに花なども差してあって、その滑稽なことこの上ないと言うのじゃ。その舞台を10人以上もの大の大人がぐるりと囲んで撮影大会なのだと。当然その古木の上にはミルワームか何かが置いてあるのじゃろう。

漂鳥殿はこんな風に言うてたのう。
「その時の気持ちはね、権兵衛さん、腹が立つとか笑っちゃうとかじゃなくて、もう顔から火が出るほど恥ずかしかったんだ。まるで自分の一番恥ずかしいと思える行為を誰かに見られちゃったと知った瞬間のように、そのシーンを見た途端にとてつもなく大きな恥の感覚に捉われてしまって、もう僕は顔を伏せて足早にそこから遠ざかるしかなかった」
「鳥を求めて自ら歩いて探し、また鳥との接し方、距離感なんかを経験から学ぶとか、そんな発想は彼らには微塵もないんだろうと思う。だから仮にその行為の不自然さや鳥に対する不敬を唱えてみたところで、彼らにはなんのことか理解できないんじゃないか。これは彼らをバカにしてるんではなくて、よって立つ足場が根本から違うんだろう。だから何かを言ってみたところでなんの効果もないだろうし、煙たがられるか、お前何言ってんのと不思議がられるしかないに違いない」
「もう僕はここへは二度と足を運ばなくなるだろう、こんな思いをするくらいなら。ただそれにしても鳥たちが可哀そうだね。このルリビも、権兵衛さんの言うカワセミも。どうかするとカメラマンに命をまで奪われてしまいそうなんだから。ただただ、彼らのエゴのために」


さて、この川筋にはクイナがけっこうおっての。気難しい鳥じゃからなかなか姿を現さないのじゃが、ここと決めた場所でじっと待っておるとひょっこり現れてくれての。それはそれは嬉しいし可愛いものじゃ。
それでの、この冬、このクイナと同じ場所に、なんとヒクイナが現れたのじゃ。越冬する個体はそう多くはない上に、やはり警戒心の強い鳥ゆえなかなかその姿を見せない鳥なので、人気の鳥でもある。じゃによって地元の人は静かにこのヒクイナを見守っておったのじゃ。

クイナ ヒクイナ

ところがの、どこかから噂を聞きつけてやってきたカメラマンが、あれはICレコーダーとかいうのかの、鳥の声などを録音再生できる機器での、こともあろうにヒクイナの声を現地に着いてすぐに流し始めたんだと。その場にいた地元の連中はどうして止めなかったのかのう。案の定ヒクイナは現れず、それどころかひと月以上もいたそのヒクイナは、以後さっぱり姿を現さなくなったということじゃ。
そんなの、当たり前じゃろ。いったい鳥の鳴き声には幾通りもあって、それは求愛であったり縄張り宣言であったり威嚇であったり、あるいは仲間への合図であったり、猛禽が来たぞのような警戒音であったりと様々なのじゃ。録音されていたヒクイナの声がどの種類の声かも分からずにやみくもに流せば、そりゃヒクイナは嫌がるに決まっとる。例えば繁殖期にオオルリの囀りを谷間で流せば、そこに縄張りを決めつつある雄が怒って即座に出てくるが、非繁殖期に流してもオオルリは知らんぷりを決め込むか、なんだ今頃? と気味悪がってどこかへ行ってしまうじゃろ。

そもそもじゃ、音声でおびき寄せた鳥を撮ってなにが楽しいのじゃ。怒って出てきた鋭い視線のオオルリの写真になんの価値があるというのじゃ。

初夏の山を想像してみるとよい。
標高を上げるにつれて木々の緑が淡くなり、萌えはじめたばかりの淡いグリーンの危ういような、それでいて生命力にあふれた若葉をつけた枝の先で、オオルリブルーに身を包んだ雄が、一心不乱に縄張りを宣言し、同時に雌を呼ぶ、その遠くまで届く澄んだ鳴き声が渓間に響き渡る、そんな生態こそが限りなく美しいのではないのか。その姿に、その鳴き声に感動して、そっと、丁寧に、気持ちを込めてシャッターを押す、野鳥カメラマンの歓びとは、たとえばそこに凝縮されるのではないのか。

こんな風に思うわしは、古風に過ぎるのじゃろか。
野鳥の撮影というのは、風情や自然を感じてという時代なんかではなく、餌付けて音声でおびき寄せ、鳥が怒っていようが怯えていようがお構いなく、ささっと撮ってそれで満足という、それが主流なんじゃろか。撮影に邪魔な木は切ってしまい、足元の草花も知らずに踏みつけ、あげくに目的の鳥以外の邪魔な鳥には石を投げつける。飛ばないコミミズクを足蹴にして飛ばそうとする。現代の野鳥撮影の手法は、それが王道なんじゃろか。

ああ、なんだか悲しくなってきたのう…

漂鳥殿はの、その後は週末になると少し離れた広大な葦原に行ってるんだと。大きな自然の空気を胸いっぱいに吸いながら、冬の猛禽と遊んでいるそうな。ここは人気のコミミズクなんかもいてカメラマンも多いが、フィールドが広大なだけに人は散るから、その人の多さもさほど気にならんのだそうじゃ。まさかコミミズクを餌付けたり音声を流す輩もおらんし、蹲るコミミを蹴飛ばす不逞な輩もおらんので、気分は悪うないそうじゃ。留まり棒を立てる無粋な輩もおるそうじゃが、コミミはその棒にはちっとも留まらず、工事の看板に留まったりするのが愉快だなどと申しておったの。

トビ コミミズク コミミズク

なかなか思うような写真は撮れぬが、ここへ立つだけでもう目的の半分は達成した気分だなどとも申しておった。居合わせたカメラマンとも話をするが、みんな素朴で餌付けなんぞには縁のない気持ちの良い方が多いと喜んでおった。
それを聞いたわしもの、なんだか自分のことのように嬉しくての。

お、話が長くなってすまぬの。年寄りは簡潔ということを知らなくていかん。
皆の衆、さらばじゃ。またどこかで会おうぞ。

(了)